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IT (情報技術) 学習記録

主に情報処理技術者試験、オラクルマスター、Linux技術者試験(LPIC)等の、IT系、または電気系の学習記録を中心に。(働き方や世の中も)

「終身雇用はもう古い」に対する反論…「給料の年功序列」をやめれば良いだけ


「終身雇用はもう古い」に対する反論…「給料の年功序列」をやめれば良いだけ


様々なところで言われている「いまの時代には終身雇用なんて合わない」「終身雇用なんてもう古い」という言説に違和感を覚える。

この言説は、多分に労働者側ではなく、使用者側、つまり経営者側の都合を含んでいる。

終身雇用(正社員など)に関する規制を緩和したところで、得をするのは労働者側ではなく、圧倒的に経営者側であると思える。

就職氷河期世代:日本版ロスト・ジェネレーションに、一応含まれている世代である私から見てもそう思える。(但し、この失われた世代に対しては、別途、救済する制度は必要であると考える)


「終身雇用」だからといって「給料を年功序列にする」必要はない


「終身雇用は維持できない」という言説には、必ずと言って良いくらい「年功序列が維持できない」という論理がセットになっている。これが不思議でならない。

ここで言う「年功序列」は、つまり「給料が」という意味合いが強い。

多くの労働組合は、一般的な家庭における「生計モデル」と、それに見合った「賃金カーブの維持」を主張してきた。20歳代で結婚して、30歳前後で第一子を授かって、40歳代に子どもの教育費などがピークになって、という「生計モデル」である。

この生計モデルは、私の世代からすると、もう古いと言わざるをえない。良い悪いは別にして、このモデルは既に崩壊してしまっているのだ。

崩壊している生計モデルを論拠とした、「賃金カーブ」の維持は、確かに時代に合っていないと感じる。

しかし、その事が、「正社員の規制が古い」とか、「終身雇用はもう維持できない」という考えに発展、飛躍する事が、正直、理解できない。

けっきょく、右肩上がりの「賃金カーブ」だけ見直せば良い話ではないのか。


使用者側と労働者側との合意が軽視されている現代


かつての昭和中期時代の高度成長時代のような、「サラリーマンは気楽な稼業」という幻想は、確かにもう古すぎてお話にならない。

いつまでたっても成長しようとしないような問題社員が居る場合には、しっかりと評価を行った上で、処遇を落とすなどの措置は当然、行われるべきである。そしてその状態が一定期間、改善が見込まれない場合には、退職をしてもらう。企業だって営利団体なのだから、その点は当然である。

これは過去の終身雇用が主流だった時代でもあった事である。ただし、いきなり労働者側の都合や言い分を無視して、使用者側の独裁で行われるのではなく、できるだけ話し合いを重ねた上で、お互いに合意した退職を目指す。

いまの時代、この点が軽視されている場合が多いことが問題なのである。

その「お互いの合意という点が軽視される状況」がはびこっているのが、いわゆる「非正規雇用」の世界や、形式上は「正社員」であっても実質的には「人月商売による派遣」もしくは「偽装請負」が横行している世界である。

このような世界には「使用者側の利益」しか存在しない。

しかし、それは使用者側にとっても「短期的な視点での利益」でしかなく、「中長期的な視点での利益」では、むしろマイナスなのではないだろうか。


「終身雇用」だからこそ中長期的な人材育成が可能


長い職業人としての経歴を積む中では、時には研修を受けたり、すぐには結果が出ない勉強期間も必要である。

そういった個人としての中長期的な成長を考える場合、終身雇用の考え方は利点が多いと思える。

個人としての成長を促すことで、企業としても中長期的には競争力が増加する。


「終身雇用」という言葉が悪ければ他の言葉でも良い


重要なことは、

  • (基本的には)自分から転職を望まない限り長く働ける職場

  • 中長期的な成長を配慮してくれる職場

  • 育児や介護などといったライフステージ変化にも配慮してくれる職場

…が、制度的に確保される事である。


「旧態依然の終身雇用にしがみついている人々が、非正規雇用の職を奪っている」という言説によって、労働者同士の対立を煽るのは、ブラックな使用者側の狡猾な洗脳なので、それに騙されてはいけない。

「時代に合わない年功的な賃金体系」がある故に、「あの中高年社員はろくにパフォーマンスを上げていないのに高い給料をもらっている」などという不公平感が出てくるのである。

パフォーマンスが悪くなれば、待遇も下げるのは当然の事である。

ただし、順当に経験値を積み上げてきた中高年社員であれば、必ず特定の強みを持っていたり、莫大な経験値のみで大抵の判断ができるため、頭の力をより創造的な面に使ったりできるようになっているものである。

そういった価値は、やはり評価されるべきであるし、日本においては、『失われた20年』によって、取り返しがつかないほど、喪失してしまった真の労働力なのである。

「知ったかぶり」からはじめよう


「知ったかぶり」からはじめよう


はじめは誰もが初心者・初学者である。学問でも仕事のとある領域でも。

人は何者かのフリをする事からはじめ、そうする事で、その何者かに近い存在になって行く。

何かの専門家になりたいと思うなら、その専門家のフリからはじめれば良いのである。


一応、普通の職業人として20年程度、様々な人を見てきたが、何年たっても「その道の専門家」にならない人、「その道の専門家」として周囲からも一目置かれる人、両方いる事がわかってきた。

ここで断っておく事は、必ずしも専門家になる事がすべて良い事である、とは言い切れないという事である。人には「向き不向き」がある。「ゼネラリスト」も世の中には必要であると思う。

その上で、私は個人的には、専門性を高めたいし、これからの世の中に強いのは専門性を高めたスペシャリストであろうと思っている。これはここでも何度か主張してきた事である。


「わからない」と言っているうちは「わからない」


日本人は控えめな方が好まれる。そう思っている人も多いようである。

しかし、仕事において、必要以上に謙遜して「自分はよくわかっていないんですが」と言うことは、マイナスでしかない気がする。

例えは悪いかもしれないが、よく「仕事はできる人に集中する」と言われている。

情報や知識も、実は同じである。たくさん持っている人に、より多く集まってくる。

「わかっていない人」よりも、「わかっている人」に、より多くの情報が集まる。


自分はこの分野をよくわかっていない。よく知らない。

謙虚に自分自身の中で思う事は大切であるが、それが過ぎると、自分に対する言い訳になってしまう。

確かに100点満点の知識はない。でも、60点位の知識はあるかもしれない。

こういう場合、まだまだ100点ではないから「自分はよくわからない」と思い、人にもそのように言うか、もしくは、60点くらいは知っているので「自分はまずまず知っている方だ」と思い、そのように振る舞うか。

実は、100点満点の人など世の中にはほとんど居ない。

従って、前者では、いつまでたっても「自分はよくわからない」と言い続ける。一方、後者は「自分はまずまず知っている」と思い、そのように振る舞う事によって、自然とその知識をさらに高めていく。


「はったり」をそのままにしない


専門家のフリをするという事は、時には「はったり」をしてしまう事もある。

ここで重要な事は、せっかく打った「はったり」をそのままにしない、という事である。

「はったり」を打つ。そうすると、その後、自分の中では、「あのはったりは正しかっただろうか」と必死に思いが駆け巡る。

なお、知識がゼロの人には「はったり」は使えない。知識がけっこうあるからこそ、できる事でもあるのだ。

従って、「はったり」は割と当たっている事が多い。しかし、自信が無い。そこで、上記のように、「はったりは正しかったか」を後でしっかりと検証する。

検証することで、その知識は定着する。


こう言う私も、最近、仕事疲れで勉強が進まない。フリばかりしていないで、早く本当に知識を付けなくてはと思う次第である。

【速報】5月24日(水曜日)のネット界隈で気になった話題をツイートでまとめてみた


【速報】5月24日(水曜日)のネット界隈で気になった話題をツイートでまとめてみた





プログラミング的な思考を身につけるのなら、数学の復習も大切のような気がする


プログラミング的な思考を身につけるのなら、数学の復習も大切のような気がする


最近、休日には、どちらかと言うとIT系ではない分野の本やWebページを良く見ている。

ズバリ言うと、数学である。

普段の業務では日本語力しか鍛えていない感があり、中学生、高校生レベルはもちろん、下手をすると小学生レベルの算数も、問題が解けるかあやしい状態にある。

そのような状況で、改めて数学の書物を読むと、かなり新鮮な気分である。

特に対数(log何とかというやつ)などの考え方は、今になって改めて読んだり聞いたりすると、論理的な思考の展開とはこういう事なのか、と感嘆する。コンピュータや電子卓上計算機が存在しなかった昔に、こんな概念を考えるなんて天才かよ、とも思う。


以前、とある識者が、こんな事を言っていた。

「プログラミング教育の義務化」という言葉だけがひとり歩きしているが、その真の意味は「プログラミング」のみを義務化するのではなく、「プログラミング的な思考」の教育を義務化するという意味だ。


という事であれば、いきなりプログラミングという話ではなく、まずは数学の授業をもっと面白く、脱落者が出ないように工夫して、数学的な思考力を高めるという方策も有りなのではないか、とも思える。

まぁ、単に、私がいま、数学の復習をしているから、そんな気分になっているだけなのかもしれないが。


数学を何のために復習しているのか


思うところがあり、「電気数学」を勉強しはじめている。

自分が知っている専門領域を少しでもズレると、こんなにも基本的な事がわからない、難しいのだ、と驚愕する思いである。

コレは短期的に何かを収穫するための勉強というよりは、中長期的な事を考えている。

以前の記事にも書いたが、あと10年もすると、私が属する世代はどんどん職場から閉め出され、大競争時代になるだろう。(職場から閉め出されても年金がもらえる訳はなく、また働かないといけなくなるだろう)

その時に、たぶん、ありきたりなSEの経験なんて、評価されないような予感がする。

…まぁ、そんな思いだけはある。


こんな本が欲しいのでポチった

理系人のための関数電卓パーフェクトガイド〔改訂第一版〕 (とりい書房の“負けてたまるか”シリーズ) 遠藤雅守 (著)

https://www.amazon.co.jp/dp/4863340753/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_Kusizb3ES26SSwww.amazon.co.jp

この本は「なか身検索」や口コミを見ると良書のようなのに、既に絶版になっている模様。

何故なのか。

精神障害者福祉手帳というものがあるのだが取得した方が良いのかどうか…


精神障害者福祉手帳というものがあるのだが取得した方が良いのかどうか…


来年度(平成30年度:2018年度)から、精神障害者雇用の義務化という法律が施行されるらしい。(実際には「義務」というほどの事ではないらしいが、障害者雇用率のカウントに精神障害者が正式に加えられるようだ)

それがあるせいなのかどうなのか。

先日、職場の保健師さんから、手帳を考えたことがあるか、と訊かれた。

考えたことがまったくないわけではないが、私の場合、確かに数回、長期に会社を休んでしまう事があり、その最も長いものが昨年までの三年間という期間だった訳であるが、正直、自分が『障害者』なのかと自問すると、どうなのか、と思う。

それに、私の場合は、申請が通ったとしても3級だろう。

精神の障害者手帳3級は、別に年金が出るわけでもなく、ほんの少し公共交通やサービスが割安になったりするだけである。


果たして身を守るものになりえるのか


手帳を持つことのデメリットは、私としては、職場などの人事情報に「精神障害者」として記録が残ることだと考える。

それは、身を守る盾になってくれる場合もあるかもしれないが、かえって不利な扱いを受ける可能性も捨てきれないと思える。

組織は、結局のところ、過去から連綿と引き継がれてきた人事情報で判断するものなのだから。


メリットは、多分に経済的な面であると思える。些細な事だが携帯電話料金なども割安になるらしい。

そして、上にも書いたが、やはり身を守る盾になりうるか。

これに尽きる。


自分は精神障害者なのかという根源的な問い


あとは、根源的な問いである。


(今回の記事は、書こうか否か、正直迷いましたが、率直に書きました)

いま話題の経済産業省若手官僚作成資料を読んで…我々団塊ジュニア世代は見逃しストライクアウト世代か…


いま話題の経済産業省若手官僚作成資料を読んで…我々団塊ジュニア世代は見逃しストライクアウト世代か…


経済産業省若手官僚が作成した「不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~」という資料がネット上で話題となっている模様である。

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdfwww.meti.go.jp


どうやら、書かれたのは1980年代生まれ中心の若手官僚であるようで、そうすると、現在30歳を少し超えたくらいの者たちだろうか。

経済産業省に入省して10年前後というエリートさんたちである。


団塊ジュニア世代は「見逃しストライクアウト」であったようだが…


この資料の最後から2ページ目の64ページを引用して貼り付けます。


f:id:KF7757:20170520104501j:plain


この表現を見るに、我々団塊ジュニア世代は、既に見逃しストライクでアウトになっているようだ。

一応、解説しておくと、この「見逃し三振」という表現は、スポーツの野球に例えられている。

野球で「三振」はアウトとなる。


まだまだストライクアウト(過去形)にしてほしくはない


ストライクアウト(過去形)にしないでいただきたい。

40歳代の就職氷河期ロスト・ジェネレーション)の最先頭世代を、過去のものとしないでいただきたい。

いま30歳の君らからすれば、既に過去なのかもしれないが、多分に君たちの世代のモデルケースになり得る世代である。

頼むよ。

労働時間はやっぱり重要だと思う


労働時間はやっぱり重要だと思う


最近、職場を通じて、とある外資コンサルタントが開催している、業務時間が終わってから参加するタイプのセミナーの話を耳にした。

そのコンサルタント曰く、『その時間でも参加するような人はやる気があるので、そういう形式を続けている』とのこと。

直接、そのコンサルの人から聞いた訳ではない。だから文脈もわからない。

それでも、上記のような言葉として、私の耳に入ってきた訳である。


「業務時間が終わってから(夜)でも参加する人」を、「やる気がある人」と評価する、という事は、厳密に言えば、必ずしも「業務時間が終わってから(夜)は参加しない人」を、「やる気がない人」と評価している、とは限らない。

それはわかったうえで。

それでも、「業務時間が終わってから(夜)は参加しない人」を、「やる気がない人」と評価しているのではないか、と疑いたくなる言葉ではある。

仮に、その疑いがある程度当たっていたとするならば、その外資コンサルタントの考え方も、いまの社会には合わない、古い考えだなぁ、と思った。


「楽しければ長時間でも耐えられる」というのは間違い


以前、とあるエンタメ系の企業の経営者が、「ホワイトカラーの仕事は時間で測るものじゃない」とネット上で発言をして、炎上した。


創造的な仕事を、集中してやる場合は、アドレナリンが出てきて、楽しい。そういう時には「労働時間」という概念で規制する事はマイナスである。


こういう言い分である。

しかし、これは危険な考えである。

下手をすると「ブラックな職場」を作ることになる。


アドレナリンが出ているという事は、脳内麻薬が出ているという事である。

一時的に栄養ドリンク剤で気力を奮い立たせているのに似ている。

無論、ひたすらツライ仕事よりも、何らかの創造性がある楽しいと思える仕事の方が、ストレスは感じにくいとは思う。

しかし「ツライ」「楽しい」に関係なく、人間の心身は疲弊する。

だからこそ、これだけ「残業を減らさなければ」という声があがっているのである。

「楽しければ長時間でも耐えられる」と言っている人は、たまたま自分の心や身体の限界まで頑張ったことがない人であると思う。

人間はしょせん生物なので、心や身体には限界がある。


ちゃんとした企業(比較的大企業に多いが)では、管理職や裁量労働制の社員であっても、「総労働時間の管理」を行うように指導している。

それは、管理職や裁量労働制の社員でも、長時間労働が心身の健康を損ねる傾向がある事には変わらないという統計を持っているからである。


どんなに素晴らしい内容のセミナーであったとしても、業務時間が終わってからの、かなり疲れている状態で受けるというのもどうなのだろうか。その程度の事で「やる気」を測ってほしくはないものである。

近年の基本情報技術者試験の参考書から消えたモノたち…(データ表現・ファイル編成形式など)


近年の基本情報技術者試験の参考書から消えたモノたち…(データ表現・ファイル編成形式など)


シラバスには記載があるのに、事実上出題されないと判断されている情報がある。 (複数の最新参考書を確認したが記載がない)


数値の表現における2進化10進法(BCD

10進数のデータを、10進数の考え方のまま内部で保持して、CPUやメモリといった最下層レイヤでも10進数のまま演算を行うというもの。

汎用機(メインフレーム)の世界では今でも使用されている。

メリットは、基本的に『数字』(つまり文字コード)で表現されている外部との入出力データを、『2進数に変換する』という危険を敢えて冒さずに内部処理を行う事で、金額データに対する利息計算などの「誤差を許容できない」世界で、より安全に処理ができるという点。

システム的なメリットというよりも、人間系による処理内容の「検証」の容易さなどといった、社会的なメリットの方が大きい。


ファイル編成の種類

オープン系プラットフォーム(UNIX/Linux系、Windows系)における「ファイル」は、最下層レイヤでは、それぞれのOSが採用している「ファイルシステム」の種類に依存した形式で作成される。しかし、ファイルシステムの違いをOS側が吸収してくれるため、どのOSにおいてもファイルの扱いはほぼ同じであり、ファイルの作成や更新は、アプリケーション側から随時システムコールを行う事で実行される。DBMSなどの特殊なアプリケーション以外は、事前にカタログを行う必要はなく、ファイルの種類を宣言する必要もない。(バイトストリーム)


汎用機(メインフレーム)の世界においては、一般的に下記のようなファイルの種類があった。

  1. 順編成ファイル(SAM:シーケンシャル・アクセス・メソッド)

  2. 索引付き順編成ファイル(ISAM:インデックス・シーケンシャル・アクセス・メソッド)

  3. 区分編成ファイル

  4. 多重索引付き順編成ファイル(MSAM:マルチプルインデックス・シーケンシャル・アクセス・メソッド)

  5. 仮想記憶編成ファイル(VSAM:バーチャル・ストレージ・アクセス・メソッド)

基本的に汎用機やオフコン文明のOSにおいては、ファイルは作成前に必ず「領域の確保」を行う必要がある。(カタログ)

1.のSAMファイルは、最も単純なデータファイルとして使用される。2.ISAM、4.MSAM、5.VSAMなどは、何れもSAMファイルの発展系であり、順アクセス以外の、キー値指定によるダイレクトアクセスが可能となっている。但し、DBMSのような「ロールバック機構」はないため、更新前の状態に戻すには、バックアップから復旧が必要となる。

3.の区分編成ファイルは、UNIX/Windows系におけるディレクトリ(フォルダ)を1階層だけ内蔵しているようなファイルである。中はメンバーという更に細かいデータとして区分されており、各々のメンバー内に、プログラムソース、プログラムオブジェクト、プログラムロードモジュール等を格納する。

区分編成ファイル内のメンバー情報を保持している部分を、TOCと呼んでいる。

なお、汎用機系においては、IBM/MVS系、およびその互換機(富士通FACOM、日立HITACなど)のOSが大きなシェアを獲得していた事から、IBM系の概念がそのまま使われている。IBM用語でいうと、上述した「ファイル」は、「データ・セット」という用語になっている。


SAMファイルとかは、いまでも言葉としてはよく使われているイメージがある。

IT業界の若手はユーザー業務知識には無関心だが…それで良いのかな?


IT業界の若手はユーザー業務知識には無関心だが…それで良いのかな?


昨年の夏まで長期休職をしていた身で、その関係上、職位も下げられたし、昨年度の仕事も環境構築の手伝いとか、対運用部門向けの手順書作りとか、シェルスクリプトの作成/テストとか、そういう領域から仕事に戻ってきた。

個人的には環境やシェルプログラミングも勘所を取り戻せたので良かった。何故か、こういう実機作業は『若いモンの仕事』と決めつける風潮があって、それは良くないと感じていた。

その感覚はこれからも大切にして行きたいと思っている。


職場復帰から半年以上経過して、何とかやれやれと思っていたところ、年度が代わって4月。

いきなり、割と大規模な案件の最上流工程(要件定義から)を任されることになった。

当該のユーザー業務や既存システムに関する有識者が、私以外にほとんど居ないという哀しい実情もあった。

ユーザー業務の方は、あくまでもシステム仕様面からしか詳しくはなかった訳だが、何せ、下記の記事にも記したように、ユーザー側は『定期人事異動』で人がどんどん入れ替わる状況であるため、気がつくとユーザー側の担当者も、既存の業務もシステムもよく知らない、という事になる。

kf7757.hatenablog.com


プロジェクトマネージャーなど、管理する者の目線で考えてみると、私が昨年度、主にやってきたシェルプログラミング等の実機作業は、いざとなれば他にも同じような、もしくはより高いスキルを保有している人材はたくさん居る、ということになる。

私の中では、「IT汎用スキル」を多く持った人材という言い方をしている。「IT汎用スキル」を多く持っていたり、高いレベルの人材は、探せばたくさん居る訳である。


一方、今年度から私がやっている仕事は、全くできないという事はないだろうが、知っている人と知らない人とでは、アウトプットの速度や品質が、それこそ何十倍にもなってしまうような仕事かもしれない。(既存システムの設計書などの整備状況にもよるが、設計書をいくら読んでも『この処理にはどういった意味/意図があるのか』が、わからない)

こういった知識やスキルは、上記の「IT汎用スキル」と区別する意味で、「非汎用スキル」もしくは「ユーザー業務知識」という分野になるだろうか。

後者の知識やスキルを持つ人材が、そもそもどこにも居ない(昔は居たが失われた)、もしくは、極端に少ない、というのが、いまの日本のIT業界の現実であり、課題である

これには日本のIT業界のガラパゴス体質も無関係ではない。本来ならば後者のような知識を持つべき人材(ユーザー企業内部もしくは一次請けで保守を任されているIT企業内部)が持っておらず、言葉は悪いが下請けIT企業の技術者に丸投げする行為が横行してしまうと、たいてい、いつかは失われてしまう。


「潰しが効かない」は実は二律背反である


昔の私は、ユーザー側の業務知識などには、まるで興味がなかった。上記で言うところの「IT汎用スキル」を持つことこそが良い事であると信じていた。

それは、今の若手メンバーにも言える事でもある。皆、業務知識などには興味がない。

何故だろうか。

それは一言で言うならば、『潰しが効かない』知識/スキルであるためだ。

このような知識をいくら高めたからといって、まず活かせる場が限られすぎている。転職して他の業界にでも行けば、まるで役に立たない知識だと思える。

転職とまでは行かずとも、プロジェクトの下層で『動かされている』身では、繁忙となったときだけ使われて、それが過ぎれば、また他のプロジェクトに否応もなしに移らされてしまう。(専門家として処遇されない)


確かに、そういう面はある。

だが、私は三年間、仕事を離れてみて、世の中を客観的に前よりは見るようになって、こう思うようになった。

上記のような『潰しが効かない』仕事でも、それをやる機会があるなら金を払ってでもやってみたい、と、そう考えている人も世の中には居る。

それは何故か。

“「IT汎用スキル」のみ"での競争は、とてもツライからである。

競争相手が大勢いるという状況は、過当競争を招く。

一方で、"「IT汎用スキル」に加えて「ユーザー業務知識」も兼ね備えている"という場合は、実はほとんど競争がないのである。

私の観測範囲でも、私よりも年上のベテランSEが、その業務知識や非汎用スキルを買われて、元請けIT企業に転職するという場面を何回も見てきた。


こういう事を、若手にわかって欲しいのだが、なかなか難しい。

学歴と生涯所得の調査を懐疑的に見る…世代間格差の方が重要じゃないのか?


学歴と生涯所得の調査を懐疑的に見る…世代間格差の方が重要じゃないのか?


独立行政法人労働政策研究・研修機構というところが学歴と生涯所得の関係をまとめており、それによると、『高卒者と大学・大学院卒者では「生涯所得が6000─7000万円異なる」』とのこと。

それを理由に、『高等教育の完全無償化』という考えが政府側から出されて、財務省は消極的のようである。

matome.naver.jp


これ。

世代間格差。ジェネレーションギャップを考慮していないよね。


学歴が『良い』ほど、優良大企業や中央官庁などに就職する可能性が高まる事は否定しない。具体的なソースは持たないが、肌で感じる実感としては、まぁ、そういう『傾向』はあると思う。あくまでもマクロ的な見方では。

しかし、そもそも、現在60歳の世代が大量に社会に出た40年前や、現在40歳の世代が世に出た20年前などとは、そもそも社会情勢や進学率なども異なる訳なので、単純には比較はできない。

それに、以下の記事にも書いたように、大学進学率がいくら上昇しても、『社会の側から』、序列をつけることを求められている現状がある。

kf7757.hatenablog.com


おそらく、大学進学率が高い今の学生たちが壮年期になる40年後になっても、『生涯所得の格差』は今と変わらないか、むしろ拡大していると思う。

それが良いか悪いかは別として。


私の観測範囲では、就職後、『○○さんはxx大学出身』『○○くんはxxを専攻してきた』などという情報が、『現場』において重視される事は見たことがない。それどころか、周囲の人々は、そういった事すら知らない場合がほとんどである。

それが良いか悪いかは別として。


よく、空気がまだ読めていない新入社員が自己紹介等で「自分はxxをこれまで勉強してきました」と言っても、周りの人々からは生暖かい目で見られるだけ、というのも見かける。

高い場合は年間で数百万円もの教育費を投入されて育てられて、現実はコレとは、いかがなものかとは思うが…。

本当に、高校3年生時点の一時的な受験学力だけが重視される日本社会とは異常である。