社会に出たら偏差値などというきわめて限定的で歪んだモノサシの意味はなくなるんだが…
社会に出たら偏差値などというきわめて限定的で歪んだモノサシの意味はなくなるんだが…
私が中学生や高校生だった頃にも、熾烈な受験戦争はあった。
何しろ、同世代が200万人以上居る世代である。
現代の倍近く居る。
なので、私の時代にも偏差値というモノはあった。
しかも、現代に比べて、大学の数は多くなく、全体的に狭き門であった。
私の世代は、仮に現役で大学に進んで4年間で卒業した場合、バブル崩壊直後の「就職氷河期」に突入していた。
いくら偏差値が高い大学を出たとしても、就職できない人は就職できなかった。
一方で、大学に進まなかった場合でも、就職できる人は就職できた。
私の世代は、受験の時に偏差値のような人間性を全く無視したペーパーテストのみの相対値に、確かに一喜一憂もしたし、翻弄されてもいたが、その一方で、こうも考えていた。
「偏差値なんかで人の価値が決まってたまるか」
高学歴の人も、そうでない人も、少なくとも私くらいの世代の人は、そんな風に考えていたと思う。
この世代の行き過ぎた偏差値教育の反省が、後のゆとり教育世代につながっている。
上記のような時代。
受験時のペーパーテストからしかわからない偏差値というものと、就職のことを、そんなに関係づけて考えてはいなかったと思う。
大学・短大・専門学校など、高校より上の高等教育を行う学校に対して、何故、行きたいと思っていたか。
やりたいことを見つけるという人もいた。
勉強がしたいという人もいた。
でも、例えば高校生の時点から、どこかの有名大企業に就職したいとか、そんなことを考えている人は、いただろうか…。
そんな事は、就職活動のときに考えれば良いことで、そして、そのときにしか考えられないはずだ。
「就職は個人戦であり個別論しかない」という事が何故わからない?
日本の大学は、はっきり言って、入試に手を抜いている。
欧米の大学は、その学校ごとに個別の入学基準があって、ペーパーテストだけではなく、面接などで人物を評価して入学させている。
学生のときから興味がある分野に熱中して、ペーパーテストの勉強などが疎かになっているような人物でも、突出した光るものを持っていれば、入学できる。
日本では、ペーパーテストしかしない。これでは人物評価など絶対にできない。
高校二年とか、高校三年とか、特定の時期の、とある一日のペーパーテストの点数の高低でのみ判断している、この仕組みは、手抜きなのである。
今日も、下記のような、ある意味非常にくだらない質問がネットにあがっている。
W大学に落ちてしまい、M大学には合格しました。M大学に現役で入ると就職に不利でしょうか。 浪人した方が良いでしょうか。
だいたい、例えば、下記のような事例を考えた場合…
一流大学を出て有名大企業に総合職として就職し、現業は常に委託して上辺だけの経験を積んで、社内異動をくりかえして、社内ゼネラリストになって行く
非一流の学校を出て専門職の会社に就職し、その道のスペシャリストになって行く
これも極端な例ではあるが…
どちらが本当に、自分に合っていて、幸福な道なのか。
そういうことを就職活動や、学生時代に見極めることの方がはるかに重要である。
決して、「年収がー」とか「勝ち組がー」とか、そんなくだらないことにこだわる事が重要ではないと思うのだが…。
まぁ、世間を知らないんだよな。
学歴がーとか偏差値がーとか、もう一生やってろと言いたくなる。