IT (情報技術) 学習記録

主に情報処理技術者試験、オラクルマスター、Linux技術者試験(LPIC)等の、IT系、または電気系の学習記録を中心に。(働き方や世の中も)

とある無自覚な学歴主義者たちへのひとつの反論


とある無自覚な学歴主義者たちへのひとつの反論



1.主張

 学歴とは多くの人が『平等』で『公平』だと言っているものの、実は、その生まれた世代、生まれた家庭環境、経済的な環境によって、差が出てくるものである

 そもそも、現代において、『高学歴』とか『低学歴』という言葉を使う場合、多くの者は、その言葉の前に『大学の(偏差値が)』という言葉が付く事を前提にしているフシが見られる。言い方を変えるなら、学歴とは"大学(入学)歴"の事であり、世の中の社会人の半数以上を占めている"大学未満の学歴"を最終学歴とする者を、始めから視野に入れていないように思われる。俗に言う『眼中にない』という状態である。

 私の主張は、それって、おかしい事ではないか、大学未満の学歴を最終学歴とする人(例えば、中卒、高卒、高専卒、短大卒、専門学校卒などの人)に対して、非常に失礼な事ではないか、という感覚的・感情的な点が一つ。

 もう一つは、よく言われている、下記の理論は、理論的にも正しくはないと思う点である。

よく言われている理論
『高学歴である』という事実は、その人の努力してきた結果を示すものであり、「努力できる人」である事を示すものである。そして、『高学歴ではない(=低学歴)』という事実は、前述した努力してきた結果という意味では、それを示していない。従って、『学歴』で人の基礎能力や基本的価値(努力できる人かどうか)を測ることには一定の合理性がある。
上記が正しくないという理由(主張)
生まれた世代、生まれた家庭環境、経済的な環境によって、『学歴』には差が生じる。つまり決して『平等』で『公平』なものではない。世の中を渡る、もしくは育つ過程においては、『運』の要素が大きいのが現実である。「努力すれば必ず結果が出る」という事が夢物語である事は誰もが知る現実である。世の中には「努力できる環境に居ない」という人や、「努力しても結果が出なかった」という人が多くいる。つまり、「努力できる人かどうか」を測るのに、"『学歴』だけ"では不十分である。

2.世代の差(私の場合を例に)

 例えば、私自身は、いわゆる『団塊ジュニア世代』(社会に出る時期は『バブル崩壊後の就職氷河期の前期』という世代)に当たる(就職氷河期世代:日本版ロスト・ジェネレーション)。私の同世代の人数はとても多く、受験戦争という言葉が使われていた時代に、高校受験や大学受験を経験した。私が高校受験をした当時、公立高校は学区制を取っていて、普通の公立中学校では割と上位の成績を修めていた事もあり、その学区では上位から3番目くらいに偏差値の高い高校に進学した。具体的な偏差値を言うならば、当時で62~64くらいだったと記憶している。

 そういう意味ではまあまあの進学校と言える高校だった。そんな高校でかなりの上位をキープするような人でも、大学受験は熾烈な過当競争となっており、いわゆる『日東駒専』クラスに行くのがやっとだった。いわゆる『MARCH』クラスには本当に成績上位者しか行けず、『早慶』クラスは学年で数名程度、『国公立』クラスも学年で数名、『東大』クラスに至っては、学年で1名出るか出ないか、という状況だった。

 現代でも『東大』クラスの困難さは変わらないかもしれないが、進学校で『日東駒専』にも行けない人が続出した時代とは、かなり違っている。私の世代では、『Fランク』などという言葉はなかった。どの大学も競争率が高く、現代では『Fランク』などと言われている大学に、進学校から進んだ。『日東駒専』クラスを第一志望にして、浪人する人も多く居た。そんな世代だった。

 無論、高校から就職する人も多く居た。私のような普通科高校出身ではむしろ役に立たず、高校卒業で社会に出るには、工業高校や商業高校の方が有利だった。確かに、当時から既に大学進学偏重の傾向はあって、工業高校や商業高校が普通科高校よりも低く見られる節も、決してなくはなかった。しかし、多くの企業において高校卒業者が有望な働き手であったのは確かである。公務員は無論のこと、大企業でも高卒枠での就職口が多くあった。


 そうした、20年も前に高卒で社会に出た人々が、現代において、転職・再就職の現場で、苦い思いをしていると聞き及んでいる。特に女性で出産・育児のために退職せざるを得なかった人が、単に学歴が現代の若手よりも低い事を理由に不利な条件に甘んじているという現実には、理不尽であると感じる。


3.誤っている思考の順序

 冒頭にも書いたが、現代において、なお重視されている『学歴』は、決して本人の努力"だけ"で得られるものではない。

厚生労働白書

 大学への進学率は、上記の厚生労働省の白書やデータを参照するとわかる。

 高度経済成長期を通じて上昇してきた大学進学率は、1962年に10%に到達し、1972年に20%に到達する。その後、約20年の間、20%台半ばの水準で推移し、30%を超えたのは、バブル崩壊後の1994年である。

 いわゆる『就職氷河期』に、大学進学率は急速に上昇し、2002年に40%を、2009年に50%を超えた。

 バブルが弾ける前の、『一億総中流』と言われた時代にあっても、高校よりも更に上の学校に進学するには、かなりの学費が必要で、当然ながら親の負担は相当に大きなものだった。私の世代であっても、上記のデータを見るとわかるように、大学進学率は3割未満だった。高校よりも上の学校への進学。それには家庭の、つまり親の経済的な豊かさが必要だった事は確かだろう。

 それでも親の世代が熱心に子ども(昔の私達)を熾烈な受験競争に駆り立てた。それは現代にも通ずるものだが、見方を変えれば、そうした親の存在がある者だけが、受験戦争に参加できたのである。

 当時は受験戦争。戦争というからには敗者も存在した。現代のように競争率が1を下回る大学が存在した訳ではない。

 大学進学率が3割未満の時代。教育論的な面でも、経済的な面でも、『高校まで進学していれば充分だ』という考えの大人も多かった。

 そんな社会情勢を一変させたのは、おそらく『バブル崩壊』と、その後の『就職氷河期』であると思う。


 それまで、中学卒業者、高校卒業者が担っていた各職場の『枠』に、行き場を失った大学卒業者が流れ込んだのである。各企業は採用枠を激減させた。そこに『募集枠』に関わらず、大学卒業者が流れ込んだ。企業側は、本来なら違う基準で採用しているはずの高卒者と大卒者を、同列に比較するという愚行をする。『高学歴すぎる』という理由で採用されない事態も当然ながら発生したが、社会全体で見れば、『大卒者が高卒者を就職枠から締め出す状況』となってしまった。

 これが、『大学に進学しなければ就職も不安だ』という意識に繋がった事は想像に難くない。

 上記の現象だけを見るならば、『大学に進学した結果として、それが努力した成果となった』という思考の順序ではなく、『大学に進学しなければ満足に就職にも有りつけないかもしれないという不安感から、大学に進学している』という思考の順序なのである。

 結局のところ、『無理にでも序列を付けるための理由』を、社会が要求した

 それだけの事である。

 しかし、前述の通り、大学進学には家庭や親の心理的・経済的な支援が必要である事から、そうした“無理な社会の要求”に応えられない場合も多かったはずである。

 バブル崩壊後、社会情勢は急激に変化し、『一億総中流』と言われた時代ではなくなってしまった。

 いわゆる『非正規雇用』が急激に拡大したのもこの時代からである。

 経済的な豊かさはなくなり、経済的な理由によって、大学に進学したくても断念せざるを得ないという人は増加した。社会全体では大学進学率が上昇している中で、格差が広がって行ったのである。

 このことからも、『学歴』は、決して本人の努力"だけ"で得られるものではない、という事が言えるだろう。


4.確かに学歴の影響がありそうにも見えるが…

 近年のテレビ番組におけるクイズ番組において、中退組も含めた、偏った『出身大学の表記』、『出身大学名を売り物にする風潮』は、上述の事を考えると、いささか異常なものであると思える。

 特に20代の若手ならまだしも、卒業から40年も経った60代のタレントであっても、『出身大学』を表記している。しかも、一部の国公立大学や有名私立大学の場合だけ、である。

 クイズ番組の正答率と学歴に、果たして関連性があるかどうかは、検証できるデータがないので判断はできない。

 これは私感であるが、学歴よりも世代間格差の方が、クイズの正答率には影響を与えているように思える。また、読書量の差もあるように思える。

  • 仮説1.若年層(20歳前後まで)では学歴論者が言うように、基礎学力の差(学歴)が少し影響している

  • 仮説2.中年層(30歳~50歳代)では、学力(学歴)よりも日頃の情報の入出力(読書量など)の差が影響している

  • 仮説3.熟年層(60歳以上)では、その年齢までの知的生活の質の差が影響している

 上記はあくまでも私感から勝手に立てた仮説である。

(注 : 2017.04.09 年齢の数字を少し変更。中年層範囲を拡大)

 この仮説の通りだとするなら、大学の偏差値の差が影響しているのは20歳前後までがせいぜいではないかと思われる。(これも、あくまでも一般論的な概説に過ぎない)

 私の世代では、『社会に出て実務経験を積めば、実務経験や職歴の方が重視され、学歴なんて関係ない』と先輩たちからは言われてきた。上記の仮説が正しければ、その通りという事になる。なお、上記の熟年層の『知的生活の質の差』は、ある意味では、最もシビアに学歴的であるとも思っている。大学名の差ではなく、本当に若い頃からの『知的生活を送る環境に居た時間の差』であると思うからである。


5.人事が学歴をフィルターに使うのは正しいとは言えない

 企業が欲しい人材とは、本当はどんな人材なのだろうか。

 『優秀な人材』と答えるようなら、練られた考えではないと思う。仕事や職場には、合う人と合わない人がいる。「優秀か否か」などといった漠然とした基準だけで、それが判断できるだろうか。

 私の今の職場では、何よりも損失が大きかった出来事は、人材が職場を去ってしまう事であった。それは年齢や経験年数に関係なく、である。

 例え入社1年目の新人といえども、入社1年で職場を去ってしまわれると、そのショック、喪失感はとても大きい。

 職場も人間の集団であり、それが歴史を持っている訳だから、それぞれにカラーが有る。そのカラーに合うか合わないかは、けっこう重要な事だと思う。

 よく世間では、そうした事も踏まえて、『自ら環境に合うように努力できる人』、『変化に強い人』を求めると言い、それが『学歴』で示される、という理論がある。

 しかし、職場に合うか合わないかは、『学歴』などといった回りくどい判断をせずに、直接面談をしてみるか、もしくは何か小論文(例えば自分が働きたい職場とはどんな職場かなど)でも書いてもらう方が、遥かに直接的に判断できる。

 採用しようとしている者(入社したいと希望している者)が、学生ではなく、既に何らかの職歴を持っているなら、なおさら、今までどんな職場でやってきたか、今後はどんな働き方をしたいかなどを、直接聴いた方が確実ではないだろうか。


 なお、組織には多様性も必要である。

 その意味でも、学歴のみをフィルターに使ってしまう、あるいは、書類選考だけでフィルターにかけてしまうと、『きれいな職歴』の人しか残らない。

 企業の内部で出世して行くのは、それこそ『きれいな経歴』の人というのが通例ではあるが、それも本当なら良い事とは限らない。

 例えば、近年、社会問題となっているメンタルヘルスも、そういった病気を一度でも経験した者の方が、できる役割もあるのではないだろうか。たいてい『パワーハラスメント』の問題を起こす管理職は、得てして『自分は自分の努力で出世してきた』という自負が強すぎる社員ではないだろうか。

 


6.学歴の話題は本当に繊細…なので

 学歴という言葉には魔力でもあるのか、この言葉を見ただけで平静ではなくなる人が必ずいる。

 この個人のブログを読んでも過剰に反応する人はいるかもしれない。

 私は言いたいことを自身のブログに記載しているだけである。その為、過剰な反論などには特に反応するつもりはない。もちろん、感情的には賛同を得られる方がうれしいに決っているが、それは人に強要するつもりもないし、この程度の文章で論破する気もない。


7.おわりに

 正直、尻つぼみになっていると思う。

 長い文章は書くと体力を消耗するのだ。


 最後に、私自身の背景を少しだけ書いて終わる。

 私は、プロフィールにある通り、一介の情報処理技術者システムエンジニア)である。メンタルヘルス的な問題で長い休職も経験した。そのおかげで降格の憂き目も見ている。だが、しぶとく何とかやっている。レールを外れてこそ、見えるものもあると思う。

 私は、大学未満の学歴を最終学歴とする者の一人である。



(後日追記:関連記事リンク)

kf7757.hatenablog.com