労働時間はやっぱり重要だと思う
労働時間はやっぱり重要だと思う
最近、職場を通じて、とある外資系コンサルタントが開催している、業務時間が終わってから参加するタイプのセミナーの話を耳にした。
そのコンサルタント曰く、『その時間でも参加するような人はやる気があるので、そういう形式を続けている』とのこと。
直接、そのコンサルの人から聞いた訳ではない。だから文脈もわからない。
それでも、上記のような言葉として、私の耳に入ってきた訳である。
「業務時間が終わってから(夜)でも参加する人」を、「やる気がある人」と評価する、という事は、厳密に言えば、必ずしも「業務時間が終わってから(夜)は参加しない人」を、「やる気がない人」と評価している、とは限らない。
それはわかったうえで。
それでも、「業務時間が終わってから(夜)は参加しない人」を、「やる気がない人」と評価しているのではないか、と疑いたくなる言葉ではある。
仮に、その疑いがある程度当たっていたとするならば、その外資系コンサルタントの考え方も、いまの社会には合わない、古い考えだなぁ、と思った。
「楽しければ長時間でも耐えられる」というのは間違い
以前、とあるエンタメ系の企業の経営者が、「ホワイトカラーの仕事は時間で測るものじゃない」とネット上で発言をして、炎上した。
創造的な仕事を、集中してやる場合は、アドレナリンが出てきて、楽しい。そういう時には「労働時間」という概念で規制する事はマイナスである。
こういう言い分である。
しかし、これは危険な考えである。
下手をすると「ブラックな職場」を作ることになる。
アドレナリンが出ているという事は、脳内麻薬が出ているという事である。
一時的に栄養ドリンク剤で気力を奮い立たせているのに似ている。
無論、ひたすらツライ仕事よりも、何らかの創造性がある楽しいと思える仕事の方が、ストレスは感じにくいとは思う。
しかし「ツライ」「楽しい」に関係なく、人間の心身は疲弊する。
だからこそ、これだけ「残業を減らさなければ」という声があがっているのである。
「楽しければ長時間でも耐えられる」と言っている人は、たまたま自分の心や身体の限界まで頑張ったことがない人であると思う。
人間はしょせん生物なので、心や身体には限界がある。
ちゃんとした企業(比較的大企業に多いが)では、管理職や裁量労働制の社員であっても、「総労働時間の管理」を行うように指導している。
それは、管理職や裁量労働制の社員でも、長時間労働が心身の健康を損ねる傾向がある事には変わらないという統計を持っているからである。
どんなに素晴らしい内容のセミナーであったとしても、業務時間が終わってからの、かなり疲れている状態で受けるというのもどうなのだろうか。その程度の事で「やる気」を測ってほしくはないものである。
近年の基本情報技術者試験の参考書から消えたモノたち…(データ表現・ファイル編成形式など)
近年の基本情報技術者試験の参考書から消えたモノたち…(データ表現・ファイル編成形式など)
シラバスには記載があるのに、事実上出題されないと判断されている情報がある。 (複数の最新参考書を確認したが記載がない)
数値の表現における2進化10進法(BCD)
10進数のデータを、10進数の考え方のまま内部で保持して、CPUやメモリといった最下層レイヤでも10進数のまま演算を行うというもの。
汎用機(メインフレーム)の世界では今でも使用されている。
メリットは、基本的に『数字』(つまり文字コード)で表現されている外部との入出力データを、『2進数に変換する』という危険を敢えて冒さずに内部処理を行う事で、金額データに対する利息計算などの「誤差を許容できない」世界で、より安全に処理ができるという点。
システム的なメリットというよりも、人間系による処理内容の「検証」の容易さなどといった、社会的なメリットの方が大きい。
ファイル編成の種類
オープン系プラットフォーム(UNIX/Linux系、Windows系)における「ファイル」は、最下層レイヤでは、それぞれのOSが採用している「ファイルシステム」の種類に依存した形式で作成される。しかし、ファイルシステムの違いをOS側が吸収してくれるため、どのOSにおいてもファイルの扱いはほぼ同じであり、ファイルの作成や更新は、アプリケーション側から随時システムコールを行う事で実行される。DBMSなどの特殊なアプリケーション以外は、事前にカタログを行う必要はなく、ファイルの種類を宣言する必要もない。(バイトストリーム)
汎用機(メインフレーム)の世界においては、一般的に下記のようなファイルの種類があった。
順編成ファイル(SAM:シーケンシャル・アクセス・メソッド)
索引付き順編成ファイル(ISAM:インデックス・シーケンシャル・アクセス・メソッド)
区分編成ファイル
多重索引付き順編成ファイル(MSAM:マルチプルインデックス・シーケンシャル・アクセス・メソッド)
仮想記憶編成ファイル(VSAM:バーチャル・ストレージ・アクセス・メソッド)
基本的に汎用機やオフコン文明のOSにおいては、ファイルは作成前に必ず「領域の確保」を行う必要がある。(カタログ)
1.のSAMファイルは、最も単純なデータファイルとして使用される。2.ISAM、4.MSAM、5.VSAMなどは、何れもSAMファイルの発展系であり、順アクセス以外の、キー値指定によるダイレクトアクセスが可能となっている。但し、DBMSのような「ロールバック機構」はないため、更新前の状態に戻すには、バックアップから復旧が必要となる。
3.の区分編成ファイルは、UNIX/Windows系におけるディレクトリ(フォルダ)を1階層だけ内蔵しているようなファイルである。中はメンバーという更に細かいデータとして区分されており、各々のメンバー内に、プログラムソース、プログラムオブジェクト、プログラムロードモジュール等を格納する。
区分編成ファイル内のメンバー情報を保持している部分を、TOCと呼んでいる。
なお、汎用機系においては、IBM/MVS系、およびその互換機(富士通FACOM、日立HITACなど)のOSが大きなシェアを獲得していた事から、IBM系の概念がそのまま使われている。IBM用語でいうと、上述した「ファイル」は、「データ・セット」という用語になっている。
SAMファイルとかは、いまでも言葉としてはよく使われているイメージがある。
IT業界の若手はユーザー業務知識には無関心だが…それで良いのかな?
IT業界の若手はユーザー業務知識には無関心だが…それで良いのかな?
昨年の夏まで長期休職をしていた身で、その関係上、職位も下げられたし、昨年度の仕事も環境構築の手伝いとか、対運用部門向けの手順書作りとか、シェルスクリプトの作成/テストとか、そういう領域から仕事に戻ってきた。
個人的には環境やシェルプログラミングも勘所を取り戻せたので良かった。何故か、こういう実機作業は『若いモンの仕事』と決めつける風潮があって、それは良くないと感じていた。
その感覚はこれからも大切にして行きたいと思っている。
職場復帰から半年以上経過して、何とかやれやれと思っていたところ、年度が代わって4月。
いきなり、割と大規模な案件の最上流工程(要件定義から)を任されることになった。
当該のユーザー業務や既存システムに関する有識者が、私以外にほとんど居ないという哀しい実情もあった。
ユーザー業務の方は、あくまでもシステム仕様面からしか詳しくはなかった訳だが、何せ、下記の記事にも記したように、ユーザー側は『定期人事異動』で人がどんどん入れ替わる状況であるため、気がつくとユーザー側の担当者も、既存の業務もシステムもよく知らない、という事になる。
プロジェクトマネージャーなど、管理する者の目線で考えてみると、私が昨年度、主にやってきたシェルプログラミング等の実機作業は、いざとなれば他にも同じような、もしくはより高いスキルを保有している人材はたくさん居る、ということになる。
私の中では、「IT汎用スキル」を多く持った人材という言い方をしている。「IT汎用スキル」を多く持っていたり、高いレベルの人材は、探せばたくさん居る訳である。
一方、今年度から私がやっている仕事は、全くできないという事はないだろうが、知っている人と知らない人とでは、アウトプットの速度や品質が、それこそ何十倍にもなってしまうような仕事かもしれない。(既存システムの設計書などの整備状況にもよるが、設計書をいくら読んでも『この処理にはどういった意味/意図があるのか』が、わからない)
こういった知識やスキルは、上記の「IT汎用スキル」と区別する意味で、「非汎用スキル」もしくは「ユーザー業務知識」という分野になるだろうか。
後者の知識やスキルを持つ人材が、そもそもどこにも居ない(昔は居たが失われた)、もしくは、極端に少ない、というのが、いまの日本のIT業界の現実であり、課題である。
これには日本のIT業界のガラパゴス体質も無関係ではない。本来ならば後者のような知識を持つべき人材(ユーザー企業内部もしくは一次請けで保守を任されているIT企業内部)が持っておらず、言葉は悪いが下請けIT企業の技術者に丸投げする行為が横行してしまうと、たいてい、いつかは失われてしまう。
「潰しが効かない」は実は二律背反である
昔の私は、ユーザー側の業務知識などには、まるで興味がなかった。上記で言うところの「IT汎用スキル」を持つことこそが良い事であると信じていた。
それは、今の若手メンバーにも言える事でもある。皆、業務知識などには興味がない。
何故だろうか。
それは一言で言うならば、『潰しが効かない』知識/スキルであるためだ。
このような知識をいくら高めたからといって、まず活かせる場が限られすぎている。転職して他の業界にでも行けば、まるで役に立たない知識だと思える。
転職とまでは行かずとも、プロジェクトの下層で『動かされている』身では、繁忙となったときだけ使われて、それが過ぎれば、また他のプロジェクトに否応もなしに移らされてしまう。(専門家として処遇されない)
確かに、そういう面はある。
だが、私は三年間、仕事を離れてみて、世の中を客観的に前よりは見るようになって、こう思うようになった。
上記のような『潰しが効かない』仕事でも、それをやる機会があるなら金を払ってでもやってみたい、と、そう考えている人も世の中には居る。
それは何故か。
“「IT汎用スキル」のみ"での競争は、とてもツライからである。
競争相手が大勢いるという状況は、過当競争を招く。
一方で、"「IT汎用スキル」に加えて「ユーザー業務知識」も兼ね備えている"という場合は、実はほとんど競争がないのである。
私の観測範囲でも、私よりも年上のベテランSEが、その業務知識や非汎用スキルを買われて、元請けIT企業に転職するという場面を何回も見てきた。
こういう事を、若手にわかって欲しいのだが、なかなか難しい。
学歴と生涯所得の調査を懐疑的に見る…世代間格差の方が重要じゃないのか?
学歴と生涯所得の調査を懐疑的に見る…世代間格差の方が重要じゃないのか?
独立行政法人労働政策研究・研修機構というところが学歴と生涯所得の関係をまとめており、それによると、『高卒者と大学・大学院卒者では「生涯所得が6000─7000万円異なる」』とのこと。
それを理由に、『高等教育の完全無償化』という考えが政府側から出されて、財務省は消極的のようである。
これ。
世代間格差。ジェネレーションギャップを考慮していないよね。
学歴が『良い』ほど、優良大企業や中央官庁などに就職する可能性が高まる事は否定しない。具体的なソースは持たないが、肌で感じる実感としては、まぁ、そういう『傾向』はあると思う。あくまでもマクロ的な見方では。
しかし、そもそも、現在60歳の世代が大量に社会に出た40年前や、現在40歳の世代が世に出た20年前などとは、そもそも社会情勢や進学率なども異なる訳なので、単純には比較はできない。
それに、以下の記事にも書いたように、大学進学率がいくら上昇しても、『社会の側から』、序列をつけることを求められている現状がある。
おそらく、大学進学率が高い今の学生たちが壮年期になる40年後になっても、『生涯所得の格差』は今と変わらないか、むしろ拡大していると思う。
それが良いか悪いかは別として。
私の観測範囲では、就職後、『○○さんはxx大学出身』『○○くんはxxを専攻してきた』などという情報が、『現場』において重視される事は見たことがない。それどころか、周囲の人々は、そういった事すら知らない場合がほとんどである。
それが良いか悪いかは別として。
よく、空気がまだ読めていない新入社員が自己紹介等で「自分はxxをこれまで勉強してきました」と言っても、周りの人々からは生暖かい目で見られるだけ、というのも見かける。
高い場合は年間で数百万円もの教育費を投入されて育てられて、現実はコレとは、いかがなものかとは思うが…。
本当に、高校3年生時点の一時的な受験学力だけが重視される日本社会とは異常である。
学歴とは関係しない真の頭を良くするための勉強のやりかたとは(個人的考察)
学歴とは関係しない真の頭を良くするための勉強のやりかたとは(個人的考察)
このゴールデン・ウィークには、いろいろと勉強を開始しようと思っていた。一応、LPIC202試験の学習には着手はしたものの、いまひとつモチベーションが上がらず、どうしようかと思っている。
一方で、私は、短期的な目標に加えて、中長期的な目標も、いろいろ考えている。比較的短期間に、暗記学習で勝負ができるようなベンダー系試験(LPIC,オラクルマスターなど)ではなく、広範な知識や国語力が必要となる国家試験(情報処理技術者試験/情報処理試験など)も受けていきたいし、その他にも、いろいろ考えている。
下記の記事でも触れたように、私の世代(団塊ジュニア世代/就職氷河期世代:日本版ロスト・ジェネレーション)は、とにかく人数が多い。
人数が多いということは、どうしても競争が発生するということである。
例えば、今から15年後。この世代は一斉に60代近くになってくる。年金は当然60歳では支給されない。65歳だって怪しいものだ。それに、例え支給されたとしても、人数構成比の不利によって、まず間違いなく、年金だけでは暮らせない状況になっているだろう。日本社会はまさにクライシスになっていると思われる。
想像するだけで怖い。怖いが、とにかく競争時代が再び到来するのは目に見えている。
それに少しでも備えるにはどうするか。
いろいろな手段や考え方はあるだろうが、とにかく『頭を鍛えておく』必要はあると考えている。あまり好きな言葉ではないが、近年よく耳にする『地頭』(じあたま)を良くしておくという事である。
(この『地頭』とは、おそらく造語であると思われる。普通、この熟語は歴史で出てくる『地頭』(じとう)だろう…)
0.現状
先日の記事でも取り上げた来未炳吾さんの下記ブログの記事は、かなり大きな反響があった模様である。確かに的を射たご意見であると思う。
ここで再度驚いた事は、この記事へのはてなブックマークコメントにおいて、以下のようなコメントが少なからずあった事である。
記事が長いのですべては読んでない(読めない)
長いので意味が理解できない
無論、「わかる」「賛同する」というコメントが最も多かった。しかし、そのコメントを書いている人々の多くは、「自分は『対応型』ですよ」と自覚していた。一方で「自分は『感想型』だ」と言っている人は少なかった。これは、そもそも『感想型』の人がコメントを書くこと自体をしていない可能性が伺える。
上記のように「長い」と言っている人は、もしかすると『感想型』なのではないか、とも思った。
現代は良くも悪くも、格差が広がりつつ、大学進学率は高くなっている。(詳しくは下記の記事もお読みいただきたい)
大学進学率が急上昇した背景は、1990年代後半~2000年代にかけての就職氷河期が関係していると考えているが、背景はさておき、とにかく大学卒業者は昔より若手を中心に増加しているはずである。しかし、その一方で、上述のような言語認識が『感想型』の人も増加している。
私は、一概には言えないにしろ、『感想型』の言語認識の人のほうが、『対応型』の人よりも、「読み」「書き」の能力が低い傾向があるように思える。
1.頭が良いとは
頭の良さは、様々な尺度が考えられる。しかし、ここではこう考えたい。
頭が良い = 「読み」「書き」「計算」の能力が高い
これは、
頭が良い = 情報処理能力が高い
と言っても良いと考える。
これを測る尺度が、いわゆる『学歴』(=学力)である、という意見もある。むしろそう考える人は多い。
しかし、私は、18歳(高校3年生)のある時点の受験学力だけで、その人のその後の学力の変化までわかる訳がないと思っている。人の本当の学力(つまり上記の情報処理能力)は、年齢を重ねても伸びる人は伸びると考えている。
従って、学歴だけでは判断できない。
2.一朝一夕には身につかないものとは
「勉強のやりかた」「勉強のしかた」に関するWebページは、けっこうな数、存在する模様だ。
その中で、学校の教科の中で、どの教科が最も上達に時間がかかるか、というものがあった。(どのサイトであったかは忘れてしまった…)
そこでの要旨は下記のようなものであった。
最も短期的に勉強の効果が出やすいのは「理科」「社会」である。(理由:基本的に暗記で勝負ができるから)
上記の次は「数学」「英語」である。(理由:これも上記科目ほどではないが暗記による効果が出やすいから)
逆に最も短期的には効果が出にくいのは「現代文」(国語)である。(理由:読解力や表現力が必要となるから)
また、こうも言っていた。
- 国語力を伸ばすことで、全体的な論理的思考力が身に付き、問題文の理解度も上がるため、他の教科の成績アップにもつながる。
私としては、数学が暗記で勝負できるかについては異論が少しあるものの、
国語力(日本語力)がすべての基礎である、
という点は同意見である。
現実のシステム開発などの業務においても、例えば一時期かなり流行した「オフショア開発」などで、最終的にどこに課題があったかと言えば、「お互いの」日本語力であったと思える。
顧客が提示する要求や要件(当然日本語で書かれている)にあいまいな点が多い。 日本側で作成したシステムの設計書(当然日本語で書かれている)にオフショア先の技術者から見ればあいまいな点が多い。 オフショア先の技術者は英語力は高いかもしれないが日本語力は期待値よりも低く、あいまいな日本語を読み解けない。…など。
他にも日常的なメール文章などにおいても、基礎的な国語力(日本語力)がボディブローのように効いてくる。
3.国語力(日本語力)を伸ばすには
これには明確な答えは難しい。
陳腐のようだが、以下のような事ではないかと考える。
様々な分野の本の『読書』によって、幅広くインプットを行う
自分の得意としたい特定領域に関する書類を『読み込む』ことによって、深いインプットを行う
自分の中で物事を整理しながら文章を『書く』ことによって、アウトプットを行う
特に3番目の『書く』ことは、効果は絶大だと思える。世の中には、この『書く』ことが苦手だという人が、なんと多いことか。
ここでの力が、上記「0.」の話に出た『対応型』の言語認識につながってくる。
そして、実は『書く』ためには、ある程度、多くの本や書類を『読書』しておかないと、そもそも『書けない』のである。
人間の脳は、アウトプットした事を優先的に記憶するようにできている。そのため、記憶するためにも『書く』ことが重要となってくる。
(その意味では、ブログ記事を書くことも、上記の訓練になると考える。ブログを書くことでアウトプットを鍛えられるのである)
4.大競争社会
冒頭において述べたように、やがて団塊ジュニア世代を先頭とした就職氷河期世代が60歳に近づき、人数が多いこの世代を中心に、再び大競争社会がやってくるだろう。
個人的には過度な競争は嫌いだ。
しかし、そのような個人的な希望とは関係なく、残酷に競争社会はやってくる。
価値観は人それぞれなので、一概には言えないにしろ、大まかに言うならば、下記の2種類の人間に分断されると思う。
考える人(ナレッジ・ワーカー)
動く人(マニュアル・ワーカー)
そして、人数比で言えば、多くのマニュアル・ワーカーと、比較的少数のナレッジ・ワーカーという形になってくるだろう。ナレッジ・ワーカーの方がより多くの対価をもらえる事は、想像できる。
ナレッジ・ワーカーとして働くときの条件が、上記でいう「情報処理力」の有無/高さなのではないだろうか。
(ここの考えは、正直、まだ自分でもまとまっていない。どういう社会になるか不安である)
下記のような本を読んでも、学生時代の『受験数学』に対して、「問題の解き方」のみをただ覚えてきた人が、大学に入って改めて数学を勉強すると、実は小学校レベルの事項で「つまずき」を起こしている場合があるとの事である。
学歴(受験学力)で人間を測る事などできない。
インターネット遍歴に関する雑記(基本独白)
インターネット遍歴に関する雑記(基本独白)
先程、とあるお方のブログ記事を拝読して、ハッとした。
目からウロコが落ちるとはこんな感じだろうか。
(その記事は、文末にてリンクさせていただきます)
詳しくはリンク先の記事をお読みいただきたいが、要するに、BBS世代と、SNS世代とでは、ネットに対して言語を使う感覚から異なるので、結果、「話がいつまでたってもかみあわない」といった現象が起こるという話。
ものすごく思い当たる。
僕は完全にBBS世代であり、その特徴をモロに持っていると自覚している。
このブログを「ですます調」で記述しないのも、そのせいだろう。
私は、「ちゃんとした文章はですます調では書かない」という考え方を持っている。
そう。ここは文章を書いて、それを読んでいただく場所であると考えている。
たぶん、それはそれなりに長いインターネット遍歴のせいもあると思う。
1.1990年代前半
電話回線に、それこそ現代の小型デスクトップパソコンくらいの大きさの「モデム」をつないで、更に「モデム」と当時の主流PCである『NEC PC9801』シリーズを、シリアル・インターフェースRS-232Cケーブルでつないで、通信を行っていた。
いわゆる「パソコン通信」時代である。
通信速度は最大で2400bpsであった。(bpsだ。Kbpsや、Mbpsではない)
BBSとは電子掲示板の事で、当然ながら、「2ちゃんねる」なんかも影も形もなかった。
小さなBBSの世界でも、やはり"炎上"はあった。(当時は炎上という表現自体なかったが)
ちなみに、この頃にはいわゆる「ケータイ」(携帯電話)も一般には普及していなかった。当時の高校生たちのコミュニケーション手段は、なんと、「ポケベル」である。
2.1990年代半ば~終盤
HTMLで直接記述した手作りのホームページが作られていた時代。HTML編集用のアプリケーションとしては、IBMの「ホームページ・ビルダー」などが出てきた。
通信速度は14400bps~56Kbpsであった。
個人的にハマったのが、「新世紀エヴァンゲリオン」の二次創作小説だった。90年代後半は、様々なサイトで様々な人が作品を公開していた。「もしもシンジがはじめから真実を知っていたら」とか、「TV第14話以降に話が分岐していたら」とか、エヴァンゲリオンの内容は、とことん二次創作にマッチしていた。オンライン小説が面白いと思い始めたのもコレがきっかけである。
いわゆるブログは登場する前で、日記系の内容は、各個人の手作りホームページで公開されていた。それらの登録サイトはあった。
画面が小さい、音声通話しかできないようなケータイが普及し始めた時代である。
3.2000年代
2002年頃から、世の中に「ブログ」が広まりだした。私は波に完全に遅れ、一度目に長期休養した2006年にはじめてのブログを作った。
世の中は急速にブロードバンド化していったが、私は長くナローバンドだった。(最大でも128Kbps)
ケータイによるネットカルチャーが急速に発達した時代でもある。iモードなど。
日本は独自に進化した「ガラパゴス・ケータイ」の文明が栄えたかに見えたが、そんな日本に、2008年、iPhoneが登場する。iPhoneは黒船であった。
当時のKDDI社長の言葉は今でも忘れない。「スマートフォンなんてしょせんはスキマ産業だ」
こうして振り返ると、2000年代は、インターネット文化にとっては爆発的で、激動の時代だったのだなぁ、と思う。
某巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」も一時はとても栄えた感があったが、後述する2010年代には、その勢いはなくなっていく。
4.2010年代
この時代になると、インターネットに接続するのに有線回線や、PC(パソコン)も必需品ではなくなった。
完全に、ケータイ、もしくは、スマートフォンが主役になった。
私はiPhoneを使ってみたくて、わざわざソフトバンクと契約した。(AndroidOSの機種は持っていたが、とても不安定だった)
流石に、ブロードバンドを引かないと時代遅れになってしまうので、私もものすごく世間からは遅れてDSL回線を引いた。(DSL回線も現代では最遅だけれど)
今日はこんな感じである。懐かしいと思う人もいるかもしれない。
目からウロコだった記事です。
就職氷河期世代を正しく見るにはざっくりとでもマクロ経済の歴史も見る必要がある(就職氷河期を忘れるなはごもっとも)
就職氷河期世代を正しく見るにはざっくりとでもマクロ経済の歴史も見る必要がある(就職氷河期を忘れるなはごもっとも)
少し言及するのが遅くなった感があるが、下記のはてな匿名ダイアリー記事、そしてそれに連なるトラックバック記事を読んで、私も一応、同世代であるため、共感する部分が多かった。
私がどの世代に属しているかについては、ちょっと趣が異なるが、下記のエントリーをお読みいただけると、たぶんわかると思う。
端的に言うならば、私は俗に言う「就職氷河期世代」(日本版ロスト・ジェネレーション)においては先頭近くにいる世代である。
または、「団塊ジュニア世代」とも呼ばれる。
私は、単なるシステムエンジニアでしかなく、経済学には決して明るくないが、標題のように、就職氷河期世代を正しく見るにはざっくりとでもマクロ経済の歴史も見る必要がある、と思っている。
それを、簡単に、本当に簡単に記したい。
なお、経済学は本当に素人なので、鋭いツッコミを頂いても応えきれないと思う。あしからず。
国レベルで発生したいくつもの要因が重なっている
おきたこと(超ざっくり)
- 1971年~1974年生まれの人々は、年間で200万人を超えていた。第二次ベビーブーム世代である。(団塊ジュニア世代)
この200万人超過という人口は、現在(2017年)の2倍以上である。2016年の段階で、出生者数は100万人を割っている。
この世代のすぐ上は、『校内暴力』が席巻した世代であり、この世代自身もその収束期にさらされた。
中学から学区外の国立や私立の有名中学校に受験する児童が激増した。
高校受験、大学受験と『受験戦争』が最も熾烈となり、過当競争が発生した。
- 1973年におきた「中東第4次戦争」により「第一次オイルショック」が発生し、物価の高騰(インフレ)が発生した。
日本の経済成長率ははじめてマイナスとなり、いわゆる「高度経済成長」時代が終わった。公共事業も激減し、大不況となった。
当時の大企業は、過剰な輸出攻勢(特にアメリカに対する「集中豪雨的輸出」)などによって、苦境をしのいだ。
- 1979年~80年代前半には「第二次オイルショック」が発生し、世界的にインフレが進んだ。
日本では、日銀の金融政策が功を奏するなどして、第一次の時よりは景気への打撃は少なかった。
労働組合が企業との闘争路線ではなく協調路線に舵を切ったのもこの時代だといわれている。
円高によるコスト増加を防ぐために、日本の輸出産業は急速に人件費が安い東南アジアへと生産拠点を移した。
つまり、この時代から、既に日本国内における製造業の競争力は危機にひんしていた。
(この時代からITなどの新分野へのパラダイムシフトなどが起こっていれば、日本は全く違う国になっていたかもしれない……)
本来であれば、円高の進行により、既に日本国内の製造業の価格競争力は失われており、この段階でパラダイムシフトや不況などが発生してもおかしくはなかったと思われる。
しかし現実には、莫大な金融資産が、不動産やゴルフ会員権などといったものに化けるだけの、幻の好景気に日本中が沸いた。
「イギリスの金融ビッグバン」「国鉄の分割民営化(JRの誕生)」「ベルリンの壁の崩壊」なども、この時代の出来事である。
『フリーター』(フリーアルバイター)が、その存在を知られるようになるのもこの時代である。
フリーターは、大昔でいうところの「臨時工」であり、単なる不安定労働者なのだが、それすらも何故か流行のように思われた。
- 1990年に、日本の株価や地下が大暴落した。バブル崩壊である。
当時の大蔵省(現代で言う財務省)が、銀行による不動産融資に規制をかけ、バブルを収束させようとした。短期金利も上昇させた。
そこで幻の好景気が一気に弾けた。
実際の株価暴落などの影響(不景気の影響)が、企業の新卒採用活動に出始めるのは、だいたい1~2年後になる。
そのため、新卒採用における、バブル時の過剰とも言われる売り手市場は、1992年までは続く事になる。
- 1993年~2005年にわたり、『有効求人倍率』が1を下回った。
1993年からの数年間は、ちょうど前述した『団塊ジュニア世代』が社会に新卒者として出ていく時期と一致してしまった。
1990年のバブル崩壊以降、日本中が「不良債権」にまみれた。不良債権によって銀行がうまく機能しなくなり、銀行は金を貸さなくなり、『貸しはがし』なども横行した。多くの中小企業は倒産した。
1993年には経済成長はゼロになった。
有効求人倍率の底は、1998年~2002年の5年間であり、この時期を『超氷河期』と呼んでも良いと思われる。
この超氷河期においては、既に社会で働いている労働者の給料も抑えられた。
- 1996年に日本版の金融ビッグバン(金融自由化)がはじまる。(1996年~2001年)
不良債権問題でまだ深く傷を負っていた銀行や証券会社などの金融機関は、国際情勢などによって導入された金融ビッグバンにより、いよいよ存亡の危機を迎えた。
それまで絶対に潰れないものと思われていた大手金融機関(山一證券など)が破綻した。
バブル崩壊後の『失われた10年』については、金融界だけの問題では説明できない、という指摘もある。
それでも、金融機関の破綻は、2003年まで続出する事になった。
- 2003年以降には、一時的に数字の上では景気が回復基調になる。(求人倍率に反映されてくるのは2006年頃から)
2003年。バブル崩壊から12年が経過した頃になると、金融機関の再編などにより、数字の上では回復基調になったかに見えた。
それでも、前述のように、実際の景気の影響が、企業の新卒採用活動に出始めるのは、だいたい1~2年後になるため、『有効求人倍率』が1に回復するのは2006年であった。
そもそも『有効求人倍率』とは、あくまでも「ハローワークにおける2ヶ月間の求人倍率」の事である。2000年代に入り、ハローワークによる就職の割合は低下したため、就職状況を見る指標としての価値自体が低下してしまった。
また、2005年の時代には、労働者派遣法の改正などにより、いわゆる非正規雇用ばかりが増加する状況にあった。バブル崩壊直後の労働市場とは全く異なる状況になってしまっていた。
更に、長引く金融不況時代のためか、正社員でもリストラという名の下にクビを切られる事が当たり前の世の中になってしまった。
リーマンブラザーズの経営破綻として表面化した、アメリカ版のバブル崩壊が起きた。かつての日本のバブル景気前のように、急激な円高が発生した。
日本における労働市場は、これを理由に更に厳しさを増すこととなった。2008年~2013年まで、再び有効求人倍率は1を割り、特に2010年は、1999年頃の『超氷河期』に匹敵するレベルにまで低下した。
- 2016年~現在
労働市場は、かつてないレベルの『売り手市場』になっている。少なくとも数字の上では。
しかし、上述のように、非正規雇用と正規雇用との格差や分断が拡大しており、25年前の労働市場とは異なるものとなっている。
日本の昭和時代の『不良債権』を背負わされたような感じではないか
こうして、ざっくりとであるが、おきたことを列挙してみると、見えてくるものがある。
バブル景気がそんなに長かった訳ではなく、それ以前には円高による大不況もあった。だから昔は全自動で就職ができたかと言えばそれも違う。
しかし昔は不況下であっても法律の規制もあり、就職はあくまでも正社員が基本だった。
就職氷河期世代の先頭世代は競争相手が多過ぎる中で過当競争を強いられて学生時代を送ってきた。
上記世代は「日本が経済成長を停止した」時代にちょうど就職期を迎えた。
上記世代より後の世代も「失われた10年」に就職期を迎え、「大卒者の行き場失い」によってもたらされた大学進学率の上昇時代により、格差や競争を広めていった。
日本全体の社会情勢の変化や外国からの圧力(金融ビッグバンなど)、外国の経済不況(リーマンショックなど)によって、長すぎる低迷時代「失われた20年」がもたらされていた。
本来であれば1980年代に、既に日本の製造業の輸出モデルは崩れていたので、そこでのパラダイム・シフトがなかった事が後々まで尾を引いているのでは。(これは単なる憶測)
バブルを爆発させたのは日本という国自体ではないか。
あの時期、あの1993年からの数年間に、バブル崩壊の影響を持ってくる必然性とは?
バブルを作ったのも国なら、バブルを爆発させたのも国である。
勝手な、個人的な解釈であるが…。
もしもの話は不毛だが、もしもこの世代が順当に社会に出て行けていたら、今の少子化問題も多少は軽減されていたのではないだろうか…。
この世代の問題は先送りだけではいつかは爆発する
1980年代の事など、自分がまだ子どもだった時代の事を書こうとすると、いかに自分が知らないのかを実感する。おそらく、今の若い世代にとっては、1990年代の事などは、子供の頃か、もしくは生まれる前の事なので、確かに知らないのも無理はないのかな、とも思う。
若手はともかく、今の時代に政治・経済のトップにいる人々には、ちょうど自分たちが働いていた時代の事のはずだ。時代や世代が抱える問題の本質が、見えていないはずがない。
例えば「ひきこもり」世代の主流は、もはや40代~50代なのだ。
上記はほんの例えだ。一例にすぎない。
後10年もすれば、今の40代は50代になり、50代は60代になる。その時も、社会は、今と同じでいられるだろうか。
私自身、未来を考えると怖い事ばかりだ。
東京オリンピックに何兆円もかけている余裕があるのなら、そんなお祭りはやめて、この世代を救済する施策をドンと打ち出すべきではないだろうか。
おそらく最後のチャンスは今ではないか?
(団塊ジュニア世代からしてみれば、上も下も皆、恨めしい。) (蛇足)
世代の問題なので、今不遇だという人も、比較的恵まれているという人も、問題から逃げることはできない。やがていろんな形で問題が顕在化するだろう。その時のために、どうすればよいのか。ただただ不安なのである。
まさか『グーグル先生』を本気で信じていないよね?
まさか『グーグル先生』を本気で信じていないよね?
ウチの職場は一応(レベルはさておき)IT系を名乗る所であるが、最近、若手(と言っても30歳くらいまで)の日常的な発言の中において、『とりあえずグーグル先生に訊いてみるのが良い。たいていはこれで解決する』というものを聞いた。
私はその発言に対して、半ば反射的に、『そうは言っても某質問箱とか、回答の質がメチャクチャなものもあるからね』とクギを刺した。
一方、インターネットの世界では、かなり意識高い系の記事を書いているビジネス系のブログさんにおいても、「まずはググれ」と書いてあったりする。
新入社員が配属された際に、何かわからないことがあったら、「まずググれ」というのが、近年の常識であるようだ。
そこで標題である。
まさか『グーグル先生』を本気で信じていないよね?
Google はしょせんロボット検索
グーグルをはじめとするWeb検索システムには、従来は、下記の2種類の分類があった。
Web検索サービスの内情には正直、それほど詳しい訳ではないので、現在でも上記の2種類に大別可能であるかは定かではないが、インターネット検索の黎明期においては、「ディレクトリ型」が主流だった。
ディレクトリ型は、あらかじめWebページの内容を審査する人間(エディター)がいて、その人が人力で検索用のディレクトリ情報を更新していた。従って、数は多くできないものの、検索結果の品質はそれなりに高かった。
しかし、インターネットの爆発的な広がりの中で、人間がいちいち審査するシステムでは追いつかなくなってくる。そこで代わって台頭したのが「ロボット型」である。
グーグルは、このロボット型検索の走りである。
ロボット型は、「クルーラー」「スパイダー」などと呼ばれる仮想的なロボットを使い、世界中のWebサイトを自動巡回する。そして、巡回して得られた情報を基に、非公開の様々な「アルゴリズム」を駆使して、キーワード辞書に対するWebページの「ページランク」を順位付けする。
グーグル社は、日々、アルゴリズムの更新を実施しており、できるだけ検索ワードに対して、検索結果が「高品質」になるように努力をしている。それは確かにものすごい事で、おそらくITの最先端分野の一つであろう。世界中に存在するグーグルの仮想サーバーでは、それこそ「AI」「機械学習」といった領域の知恵も投入されて、進化している事だろう。
それでも、そうであるとしても、しょせんロボット検索なのである。
人間の目で見れば一瞬で、「このWebページに書かれている情報には信憑性がない」と判断できるようなページを、完全には取り除くことができない。
日々、改良が加えられているロボット検索のアルゴリズムであるが、きわめて、本当にきわめてざっくり言うと、以下のような点を評価しているにすぎない。
当該ページにどれだけ検索ワードが完全一致するか
当該ページはどれだけ他サイトからリンクされているか
当該ページは頻繁に更新されているか
5年後、10年後はわからない。しかし、現段階におけるロボット検索は、人間の目で直接審査する内容には、まだ遠い。
そもそも「表のインターネット」以外の情報の方がはるかに巨大だ
そもそも。
グーグル検索の精度が限りなく人間に近づいたとしても、肝心の情報の海の母体は、実はインターネットではない。
ここで言うインターネットは、いわゆる『表のインターネット』(表層Web)の事である。
これに含まれないものとしては、ざっくりと挙げるだけでも、以下のモノがある。
企業や組織内の閉じたネットワーク環境にある情報
個人環境のPCやファイルサーバーなどの閉じた環境にある情報
いわゆる『裏のインターネット』で流通している特定の鍵がないと見えない情報
裏のインターネットは、「深層Web」などとも呼ばれる。インターネット上には公開はされているものの、意図的に上記の検索ロボット「クルーラー」の巡回を回避する措置を取っていたり、特定の鍵情報やアプリケーションを介在しないと見ることができなかったりするサイトである。
全世界の電子化された情報の中の大部分は、いわゆる『表のインターネット』(表層Web)からの検索には出てこない。
『グーグル先生』に訊く事も否定しない。大いにヒントにはなるだろう。
だが、盲信は危険だ。
そもそも、「ググる」行為が一般化したのは、ほんの10年~15年くらいの話である。それ以前には、隣の席の先輩に訊くか、マニュアルを探し出して読むか、などであった。
今でも案外、そっちの方が信頼度が高い場合もあると思う。
なぜ世の中はインフラエンジニアばかりのように見えるのか
なぜ世の中はインフラエンジニアばかりのように見えるのか
まず、真の意味でのインフラエンジニアって格好良い。スゴイ。これは事実。
但し、私の観測範囲では、純粋に汎用的なインフラ(基盤)系の知識やスキル"のみ"を、売りにしているような人は、かなり少ない。
そのような人には、以下のようなパターンがあるように思える。
比較的大手のIT企業のインフラ系の部門で牽引役を長年勤めた人が、社外的にもその功績や論文が注目されたりする、自分の得意領域を汎化したアーキテクト
DBやネットワークなどのインフラ系に強みを持つ専門的な企業で実績を積んだ人が、社外的にもその功績や論文が注目されたりする、自分の専門領域をより先鋭化したアーキテクト
同じくIT系企業の経験からエデュケーション分野に進み、長年指導をした実績を買われて本を出版したりする、早くから汎用スキルの指導を経験したアーキテクト
絶対数で言うなら、1番目、2番目のパターンの人が多い気がする。
全パターンに共通して言える事は、職業人としての当初からすぐにインフラエンジニアとして活躍された訳ではないという事。
最初は『キレイな汎用スキルの世界』ではなく、『泥臭い非汎用スキル、業務スキルの世界』での実務を経験しているという事である。
インターネットや、書店に並ぶ本を見ていると、世の中に露出しているエンジニアは、皆『インフラエンジニア』であるように思える。
しかし、もちろんのこと、実際には『そう見える』だけである。
実際に、プログラマー、システムエンジニア、アーキテクト、など呼び名は様々だが、ソフトウェア・エンジニアリングの世界で仕事をする中では、実は、汎用スキルよりも、非汎用スキルやユーザー業務知識などの、ある狭い特定の分野でのみ通用するようなスキルや知識の方が、はるかに必要度が高い。
世間に名を馳せているような有名なインフラエンジニアの頭の中を、もしも見ることができるなら、実際に本などに書かれているような汎用スキルよりも、それの何倍もの莫大な量の、本などには書けない非汎用スキルや業務知識がつまっていることだろう。
そして彼らの活躍の影には、企業や組織の中で日々泥臭い業務と向き合っている無名のエンジニアがいる。無名のエンジニアから彼らも多くのことを伝授されて育ってきたのだ。
情報システムはその仕様も含めて企業や組織の秘密やノウハウのカタマリでもある。外に出せるのは知識の中のわずかな汎用部分だけになってくる。
結果として、ネットや書籍として露出している知識は、汎用部分だけになる。
そういう意味では、若手の、それも新人のうちからインフラ系の仕事ばかりをやってしまうのも一概に良い事とは言えない気がする。
始めからインフラ系の仕事ばかりをやってしまうと、周囲が泥臭い業務の非汎用スキルを身につけていく中で、自分はどんどん"汎用スキルだけ"を伸ばして行けているような気分になるので、『自分は他の人よりも優れている』と錯覚してしまう可能性がある。
そうした錯覚を頼りに転職をしてしまうと、人事担当者や経営者たちからはとても過大な期待をもらえるが、いざ現場に入ってみると現場での泥臭い経験値が無いことが露呈し、期待が大きい分、現場の他のエンジニアからは使えないと思われてしまうなど、痛い目を見る事もありえる。
汎用スキルももちろん大切だ。
しかし、決して泥臭い非汎用スキルや業務知識をおろそかにしないこと。
それこそが『自分だけの価値』を、実際の厚みとして形造るモノなのだ。
【悲報】弊職場では電気系ではかなり難関の国家資格である電験三種がITSSレベル1と同ランクだと!?(本来なら最低でもレベル3以上でしょ)
【悲報】弊職場では電気系ではかなり難関の国家資格である電験三種がITSSレベル1と同ランクだと!?(本来なら最低でもレベル3以上でしょ)
ウチの職場はIT系なので、非IT系の注目度は低い。
しかし、ウチの人事方は、IT系資格であってもかなりいい加減な評価をしているが、非IT系の資格評価のいい加減さは相当なものである。
例を挙げるなら、電気設備系の国家資格である、第三種電気主任技術者試験(電験三種)が、LPICのレベル1や、オラクルマスターBronze(ITSSで言うとレベル1)と同列に扱われている。
電験三種と言ったら、敢えて強引にIT系資格で例えるならば、最低でも応用情報技術者試験クラスと言って良いし、しかも、『電気主任技術者』という名称独占、業務独占の、「国家資格」である。同じ国家試験であっても情報処理技術者試験のような、単なる「認定試験」ではない。
おそらく人事部の思考は以下のようなものであろう。
非IT系の資格のランク付けもしないといけないようだが、最高ランクは技術士が固定だからなぁ
いやいや、実際の難易度は、多分、昔の第一種情報処理技術者と電験三種がようやく同じか、もしくは電験三種の方が難しいぞ。
なんで突然、こんな事を調べたのかというと、まぁ季節柄、今年の目標とかいろいろ考える時期だったので…。
聞くところによると、電験三種ホルダーは、割と本気で65歳まで職には困らないとか…。
もちろん資格だけで生きていけるほど社会は甘くないが、やはり名称独占、業務独占の資格は良いよなぁ、と羨ましく思う今日このごろ。
なぜみんな『やりたいこと』にばかり目を向けるのだろうか…『やれること』も大切だと思うのだが
なぜみんな『やりたいこと』にばかり目を向けるのだろうか…『やれること』も大切だと思うのだが
特にいま就職活動をしている人や、かつての就職活動の体験を振り返っている人(たいていはとてもお若い人)の個人的な記事を見て、思うこと。
「なぜみんな『やりたいこと』にばかり目を向けるのだろうか…『やれること』も大切だと思うのだが」
別に「やりたいこと」を否定する気はまったくなくて、「やりたいこと」が明確なら、それを目指すのは良い事であると思う。
しかし、「やりたいこと」自体がわからない、という悩みを抱えている人が、けっこういる模様である。
『やりたいこと』がよくわからなかったら『できること』を考えてみる
「やりたいこと」をやり続けることが、幸福な生活であるとは限らない。
正直、人間には向き不向きはある。自分が持っている才覚的なものが、自分の好きなことと一致しない事はよくある。
…というか、自分の好きなことは趣味レベルでしかなくて、それを仕事にするにはハードルが高い、なんて人は、世の中に山のようにいる。
以前に「社畜なんて言うな」という記事でも少し書いたが、サラリーマンだって、見方を変えれば、それなりに創造的な部分もある。
また、基本的に、いわゆる「ブラック企業」にでも入らない限り、どんな職場で、どんな仕事をしたとしても、必ず「成長する部分」というものがある。
自分はまだ学生の身なので、そもそも「やれること」なんて思いつかない、という人もいるだろう。
日本の新卒一括採用システムは、いろいろと批判も多いが、「やれること」「できること」が何もない人でも採用してくれるという意味では、諸外国より優しいとも言える。(無論、新卒偏重の特殊な就職環境は、好ましいとは決して思えないが)
学生の頃には「やれること」がなかったとしても、特定の職場で1~2年も経験すれば、絶対に「やれること」ができる。むしろ、「自分にしかできないこと」もできているかもしれない。それは内容的な面だけではなく、例えば品質の面、速度の面など、様々な見方からして。
属人化は良く無い事だと言われ、嫌われる。また、よく中堅以上の人で、「その仕事が自分に振られる事を避けたい」という理由で、自身の職歴や経歴を言いたがらない人がいる。
でも、「自分にしかできない仕事」と言えるものが、この世の中に存在するという事は、実はとても幸福な事なのではないだろうか。
自分にとっての、quality of life、QOLで考えてみるのも重要
「やりたいこと」でも「やれること」でも考えるのが大変ならば、もっと足元を見てみる事も重要だ。
生涯年収がー、とか、そんな不確定な未来を考えるよりも、毎日通う職場としてはここが良い、とか、ぎゅうぎゅうの通勤電車で通うよりも歩いて通いたい、とか、そういう事の方が、はるかに考えやすい。
学校を選択する時には絶対に通いやすさは考慮するだろう。仕事は、職場は、もしかすると学校よりもずっと長く関わるかもしれないのである。転勤の有無はけっこう重要な事ではないだろうか。大企業の総合職として採用されたら、日本全国のどこに異動させられるかわからない。それを考えたら、拠点が一箇所にしかない中小企業で働く方が、もしかしたら自分には合っているかもしれない。
同様の理由で、顧客企業に派遣されたり、客先常駐が多かったりする会社でないかどうか、そこはこだわっても良い点だと思う。(この点は、前述した「できること」の成長の点とは相反する可能性もある。派遣先が優良企業で関わる事ができる仕事に魅力が見いだせるなら、必ずしも悪い面ばかりではない)
これからの時代は「ゼネラリスト」には不利。「スペシャリスト」を目指す方が良い
中央官庁を始めとする公務員や、大企業の本社には、高学歴だが実務は現場に丸投げしているだけのゼネラリストが大量にいる。この点は以前にも記事で触れた。
いま、60歳前後のシニア世代の、「再就職」の現場において、ある現象が起きている。
これまで大企業で様々な職場を転々としたような典型的なゼネラリストや、同じく大企業で長年経理などのスタッフ業務を支えてきたという人が、自分の子どものような歳の、再就職希望の人事担当者から、「あなたのスキルには価値がない」と言われてしまっている。
上記の2例で言うと、前者のゼネラリストの人は、それこそ「突出した管理職としてのマネジメントスキル」があれば話は全く違ってくるようである。おそらくそうした人材は、年齢が多少高かろうと、それこそ引く手あまたであろう。
後者の経理の人は、簿記がある程度できる程度の汎用スキルしかなく、近年求められているIT経理には強くない事が、低評価の理由であるらしい。
一方で、これまで設備管理の機械系エンジニアとしてやってきた人や、職人的なスキルを持っている人は、評価されている。
同じ仕事であっても取り組み姿勢で得るものがまるで違ってくる
上で「ゼネラリストは不利」と書いたが、より正確に言うならば、「中途半端なゼネラリストは不利」という事である。ゼネラリストも突き抜ければ武器になる。
管理系の仕事や、ゼネラリスト系の仕事の方が向いている、という人ももちろん多くいる。少し格好良く言うならば、「ファシリテーター」としての仕事である。
優秀なファシリテーターは、人の力を引き出す事がうまい。
人の力を引き出すには、その人をいかに早く深く理解できるか、にかかってくる。
それには、その人から素直に学ぼうとする謙虚さ、尊敬の念(リスペクト)などがもちろん不可欠であるが、実はそうしたものを持つ場合にも必要となるのが、「何らかの専門性」「自らの得意な仕事の分野」なのである。
ゼネラリストなのに専門性(スペシャリスト的なもの)が必要だというと矛盾に聞こえるかもしれない。しかし、人はどこかを軸にして成長するし、どこかを軸にして他人を理解するものなのである。
自分なりの軸を持っている人は強い。
では、どうすれば軸を持つことができるか。
例え2~3年ごとに人事異動があるような環境であっても、その時点で与えられた職務に責任を持ち、ただ上から下へ、または右から左へと、仕事を流すような仕事をよしとせず、一つ一つの仕事を理解して進めるような姿勢を持つことである。
時には下手なプライドは捨てる。しかし自尊心は大切に!
日本では、ジョブホッパーは好まれない。
私も個人的にはおすすめしない。その理由は上述の意見を読んでくれればわかると思う。
が。
もしも、毎日の職場環境において、自分の自尊心がどんどん削られていくような状況なら、例外である。早く辞めよう。
自尊心とは人の尊厳にも近いものである。
そうしたものが削られる環境は例外なくブラックと思って良い。
自尊心と、下手なプライドをごっちゃにしてはいけない。
学歴自慢などはまず間違いなく下手なプライドになる。
カルチャーギャップは、自分の中にあるこれまでの下手なプライドが心理的な衝突を起こす事である。だから、新社会人は、まずそこから苦労する。
削られているものが、自尊心の方なのか、下手なプライドの方なのか。
そこだけは注意だ。
就職氷河期においては、残念なことに、自尊心の方を削られる現場が多数あった。
今でもそれに苦しんでいる人はいることだろう。
それは本当に残念なことである。
今日は『ばっくれ退職したという新入社員』が話題だったが…。
今日は『ばっくれ退職したという新入社員』が話題だったが…。
合縁奇縁。この世の中にはどんな縁があるかわからない。
ばっくれは、正直、傍迷惑ではある。
アルバイトなら普通にある事だ、という意見もあるが、本来ならアルバイトであっても、決して良い事ではない。
他の人がやっているからと言って、じゃあ自分もやって良いのか、という問題である。
ましてや今回のニュースはアルバイトではない。
言葉が通じない程の異常環境に放り込まれたとか、そういう事態なら別であるが、今回の内容では、単に一方的に"自分には合わない"と悟っただけである。
せめて一言、退職する意向を伝えるなど、話をしないと、周りは何が起きたのかわからず、ひたすら困惑してしまうだろう。
成人した大人ならば、最低限、自分の言動に責任を持つのが良いと思う。
最低限、は・な・せ! (話せ)
とは、思う。
実は新人研修中は辞めたくて仕方がなかった
とは言う私であるが…。
自分も実のところ、新人研修中は辞めたくて仕方がなかった。(結局は、辞めずに20年以上になるのだが…)
辞めるなとは言わない。
しかし、実際には辞めなかった側の人間なので、辞める方向を強く勧めることもできない。
おそらく、辞めれば辞めたなりの、辞めなければ辞めないなりの、それぞれの異なった人生経験を積める事だろう。
私が新人研修中に辞めたかった理由は複数あるが、わかりやすい理由としては、学生時代に当時としては珍しくアセンブラやC言語を専攻して来ており、それを訴求して面接もしたはずなのに、メインフレームのCOBOL系の研修組に編入させられたからだった。
学校の先生達は皆が皆、『COBOLなんてスグに消え去る』と言っていたのに、である。
現実としては、COBOLプログラムは現在でも増加し続けているし、今でこそUNIX/Linux系のプラットフォームがメインだが、業務でなければ決して触ることもなかった汎用機系の世界での経験は、それなりに貴重なものだったと思えるが…。
この辺りは、まさに昨年に話題となった某巨大コンピュータメーカーに就職するも、すぐに辞めてしまった人と対比になる。
話が逸れた。
基本的に、労働者には『辞める自由』がある。
だから、辞めるなとは言えない。
しかし、会社側には『雇う義務』はない。
私は既に中年だから、古臭い事を言ってしまうのかもしれない。
新入社員が『辞めたい』と思う事自体は良くある事である。普通の事だと言える。
昨日まで学生だった人が、イキナリ社会人だと言われれば、拒絶反応の一つや二つは起こる。
だが、そこは最初の壁なのである。
乗り越えるべき壁だ。
乗り越えて、初めて、見えてくるものがある。
辞めるのならば…。
せめて最初の壁は超えて見てからにしたらどうだろうか…。
いま、まさに辞めたいと思っている新入社員には、こう言いたいな。
プロジェクトマネジメントにおいて本当に守らないといけないものはコストよりもタイム…時間だ!時間的余裕だ!
プロジェクトマネジメントにおいて本当に守らないといけないものはコストよりもタイム…時間だ!時間的余裕だ!
プロジェクトにおいて、何が人を追い詰めるのか。
それははっきりしている。
「お金(コスト)」と答えるPMが居たら注意が必要だ。
人をいつも、追い詰めるもの。
それは、「時間」だ。
時間が人を追い詰める。
ユーザーやプロジェクトオーナーは時間(スケジュール)を軽く見すぎる
ユーザーや、プロジェクトオーナーは、決まってお金(コスト)を抑えたいがために、時間を削ろうとする。
しかし、実情を無視した時間の削減は、結果として、更なるコストの増加を招く事がある。
理由は様々挙げられる。が、最も悪い展開は、現場の人間が、心労や過労などによって体調不良となり、稼働がガクリと下がる事態である。
繁忙期にキーとなる技術者が長く休んだりすると、それだけで、たやすく現場が崩壊する。
IT系の現場においては、本当に必要な知識やスキルを持った人材の有無が、成否を分ける。
従業員を何万人も抱える巨大企業であっても、その事業を支えているシステムの固有な知識は、下手をすると自社の誰も持っておらず、委託先のとある技術者ただひとりにしかない、なんて事は普通にある。
これが形の見えないソフトウェアの開発/保守の現場の、特に日本の現場の実情である。
ユーザーやプロジェクトオーナーは、確かにコストを重視するだろう。
それくらいしか口を出せない素人だから、という事情もある。
だが、コストカットをしたいがために、安易にスケジュールを短縮するのは愚策である。
現場の技術者にとっては、時間的余裕こそが、最も欲しいものなのである。
時間の余裕さえあれば、暗黙知を形式知に変換する余裕もできる。
時間の余裕さえあれば、マニュアルや手順書を整備する余裕もできる。
時間の余裕さえあれば、若手に知識やスキルを継承する余裕もできる。
時間の余裕さえあれば、発注元メンバーに本来の知識やスキルを渡す余裕もできる。
時間の余裕さえあれば、前任の残した資料を読み込む余裕もできる。
結果として、プロジェクトの品質も上向く。
そして、時間の余裕さえあれば、いつも心身と頭の状態を良く保つことができるので、より前向きに、より提案型に、よりヤル気を持って、仕事ができる。
ソフトウェアプロジェクトの本質はブルックスによって「人月の神話」が書かれた40年前から何も変わっていない
ブルックスによる「人月の神話」を知らない関係者が多過ぎる。
単に技術者を増員しただけでは、プロジェクトの期間は短縮できない。
スケジュールを確保しろと言うと、必ず、そのためにはお金が必要だという反論が来る。
作業工数の工面などは、まさにプロジェクトマネージャーが色んな画策をして何とかするものである。
現場の技術者にとっては、プロジェクトの黒字よりも、とにかく時間が欲しいのである。
近年は、短納期化、超高速開発など、ユーザー企業やプロジェクトオーナーなどの素人が飛びつきそうなキーワードが流行っているが、太くて短いプロジェクトを安易に決行すると炎上の可能性が高まる。
少数精鋭による細くて長いプロジェクトの方が、ずっと成功する可能性が高まる。現場の人間にとっては当たり前の事実である。
フレデリック・ブルックスの「人月の神話」の内容を見てみると良い。
40年前の本とは思えない程に、現在のソフトウェアプロジェクトにも通ずるものがある。
今日は情報処理技術者試験当日…ここでIT資格試験に関する意外と知られていないデータを少し書いておく
今日は情報処理技術者試験当日…ここでIT資格試験に関する意外と知られていないデータを少し書いておく
今日は平成29年度春の情報処理技術者試験(または情報処理試験)の試験日当日である。非常に良い天候に恵まれ、これで受験者数が少しでも伸びれば良いと思う。
私は、3年間もの休職明けという事情もあり、まだまだ高度試験を受けられるような準備もできなかったので、今回は申し込まなかったが、次回以降は積極的に受けたいという思いでいる。
情報処理技術者試験などの試験に否定的な人も、肯定的な人も、いろいろいると思う。それでも、Twitterにおいて、"情報処理" “試験"などというキーワードで検索すると、ものすごい数のツイートが出力される。
いろいろと制度が変更されて、一部は改悪だとも揶揄されてはいるが、流石に50年近い歴史を持つ国家試験である。知名度は抜群に高いという事なのだろう。
「情報処理技術者試験などのIT資格の意義とIT基礎知識の重要性」に関しては、以前にも下記のエントリーで軽く記載した。
今回は、意外と知られていない、IT資格試験に関するデータについて、少しだけ書いてみる。
民間系IT資格試験では、LPIC、ORACLE MASTER が2強
ベンダー系など、民間系のIT資格試験では、どうやら、LPI(Linux Professional Institute) による、LPIC(Linux技術者認定資格)と、ORACLEによる、ORACLE MASTER (Oracle Database)が、受験者数(または認定者数)の数字から見て、他の資格試験を圧倒しているようである。
LPIC 受験者数 2016年の段階で、約29万人 → 現時点の想定:約30万人
ORACLE MASTER 認定者数 2009年の段階で、約20万人 → 現時点の想定:約30万人
2つとも約30万人と、人数的には良い勝負である。
(オラクルマスターの方は認定者数なので、受験者数は更に多いと推測できる)
私はてっきり、オラクルマスターの方が断然多いと思っていた。こちらの方が古くからやっているためだ。感覚的にも知名度はオラクルマスターの方が上である気がしていた。しかし、実際にはLPICが肉薄している状況にある。やはり、OS系は強いという事か。(DB系も同様に強いんだが)
いろいろ調べてみたが、他のIT系の資格試験の多くは、受験者数、認定者数では、上記の10分の1にも満たないものがほとんどである。
(例えば、私が他に持っているUMLモデリング技術認定試験UMTP、等は、認定者数3万人弱のようである)
認定者数が多いという事は、それの数倍以上の『述べ受験者数』『述べ応募者数』があったという事である。
(2017年4月16日訂正)記事の中で、LPICの『認定者数』と『受験者数』とを間違えておりました。申し訳ありません。正しい数値は各試験の主催団体のWebページなどをご確認ください。
(参考)
「ORACLE MASTER 再受験のススメ - 今では管理職になっているご同輩諸君へ (Qiitaより再掲/一部修正)」
情報処理技術者試験はやはり歴史が違うので受験者数もケタが違う模様
国家試験である情報処理技術者試験の方は、IPAが統計情報を公開している。これを詳細に分析すれば、様々な事がわかるだろう。
情報処理技術者試験は、年に1~2回しか受験する機会がない事、スキルベースではなく知識ベースの内容である事、難易度が高い事、民間系試験よりは受験料が安い事、など様々な理由から…
応募者数 > 受験者数
…という傾向が強い。
それでも、経済産業省の資料によれば…
年間の応募者数が45万人規模の大規模な国家試験
平成26年度までの46年間に応募者数は1802万人を数え、合格者総数も226万人に達し
…とある。
ここで言う人数は延べ人数だろう。それでも、民間系試験とはケタが違う。
現在の平成29年に当てはめて推測してみると、ざっくり、延べ応募者数では2千万人近くに上っていて、合格者も250万人近くにまで上っているという事になる。
IT企業の人事部門の方にも、上記の試験を受けて欲しいという淡い思いはある。実際に勉強して受験してみないと、その試験の本当の難易度や本当の価値はわからない。決してITSSレベルとの相関表だけで判断できるものではない。
まぁ、逆も然りなので、これは言っても仕方がないか。
こういうように数字で見ると、やはり、皆、頑張っているんだなぁ、と思う。自分も頑張らねば。
サラリーマンは「社畜」なんて言ってはいけないし、自分はそんな事を思ってもいない。
サラリーマンは「社畜」なんて言ってはいけないし、自分はそんな事を思ってもいない。
新年度が始まってまる2週間が経過した。
新社会人、新入社員の皆さんの中には、早くも「辞めたい」とか、「自分はサラリーマンには向いていない」とか、そんな事を思っている人が出てくるかもしれない。
不思議な事ではない。
誰しもが一度は思う事である。一度どころではない。けっこう思う事である。流石に毎日思うようなら、何かが問題なのかもしれないが…。まぁ、とにかく普通の事である。
サラリーマンは本当に「社畜」なのか
この「社畜」という言葉は、いったい誰が、いつ言い出した言葉なのだろうか。特に調べる気もないし、調べても居ないが、少なくとも良い響きではない。
私は、実のところ、普通のサラリーマン(この場合は、広い意味でのサラリーマン。会社員や公務員も同じものとする)ではない職業の人か、もしくは学生さんあたりが、積極的に言い出した言葉なのではないか、と邪推してしまう。
何故なら、どうにも真の意味と実態がズレているように思えるからだ。
社畜というと、以下のような印象を受ける。
毎日ひたすらやりがいのない嫌な仕事を上司から命令されてやらされている
会社などの組織の歯車として創造性のない仕事をやらされている
成長性が低いルーチンワークが主体である
もしも、社畜という言葉から受ける印象が、上記のようなものであるとするならば、現代のサラリーマンの実態とはかなり異なると思われる。
実際のサラリーマンは、良く言えば自由で裁量もあり、悪く言えば責任が伴う
私はシステム開発系の職場(SI)で、システムエンジニアをやっているので、その立場でしかモノが言えないけれど、少なくとも、私の観測範囲では、良くも悪くも、自由と裁量は相応にあって、その代わり、当然ながら仕事に責任が伴う。
そもそも、上司は、いちいち細かい仕事を"命令してくれない"。
そう、してほしくても、してくれないのだ。細かく命令してくれた方が、何も考えずに済むので、ある意味で気が楽かもしれないのだが。
自分のやるべき仕事は、自分で考えて、自分なりの「ワークパッケージ」(作業単位)に、落とし込んで行かなければならない。
また、日々、メール文書や、顧客や協力会社メンバーとの打ち合わせに使用する資料などのドキュメントを作成する。運用へ作業をやってもらうための手順書を書いたりする。
そうした仕事には、小さいながらに、創造性が含まれている。
現代の、特にホワイトカラーの職場においては、完全なルーチンワークは皆無と言っても良いかもしれない。
(上長への承認を受けて進める『手続き』系の仕事は、確かにルーチン的ではあるが)
失ってみてわかる定期的な安定収入のありがたさ
サラリーマンの語源は、おそらく月々の給料(サラリー)であろう。
毎月、決まった日に、一定の金額の給料がもらえるという事。
これは、自由業、自営業、事業主の人から見れば、垂涎のありがたみである。ここでは詳しくは言わないが、ぜひとも調べて見ると良い。自由業の人の不安定収入での生活の大変さというものを。
昔、誰かが言っていたのだが、サラリーマンから自由業に転向する場合、大まかに言って、3倍の収入がないと同じような生活ができない、とも言う。
それくらい、安定収入というものはありがたい事なのである。
だからこそ、失われた20年の間に増加した、決して希望して就いたわけではない非正規雇用は、罪深いものであると思う。
とにかく、まずは社畜という言葉を使わないようにしたい。
そして、日々の小さな創造性を大切にするのである。