サラリーマンは「社畜」なんて言ってはいけないし、自分はそんな事を思ってもいない。
サラリーマンは「社畜」なんて言ってはいけないし、自分はそんな事を思ってもいない。
新年度が始まってまる2週間が経過した。
新社会人、新入社員の皆さんの中には、早くも「辞めたい」とか、「自分はサラリーマンには向いていない」とか、そんな事を思っている人が出てくるかもしれない。
不思議な事ではない。
誰しもが一度は思う事である。一度どころではない。けっこう思う事である。流石に毎日思うようなら、何かが問題なのかもしれないが…。まぁ、とにかく普通の事である。
サラリーマンは本当に「社畜」なのか
この「社畜」という言葉は、いったい誰が、いつ言い出した言葉なのだろうか。特に調べる気もないし、調べても居ないが、少なくとも良い響きではない。
私は、実のところ、普通のサラリーマン(この場合は、広い意味でのサラリーマン。会社員や公務員も同じものとする)ではない職業の人か、もしくは学生さんあたりが、積極的に言い出した言葉なのではないか、と邪推してしまう。
何故なら、どうにも真の意味と実態がズレているように思えるからだ。
社畜というと、以下のような印象を受ける。
毎日ひたすらやりがいのない嫌な仕事を上司から命令されてやらされている
会社などの組織の歯車として創造性のない仕事をやらされている
成長性が低いルーチンワークが主体である
もしも、社畜という言葉から受ける印象が、上記のようなものであるとするならば、現代のサラリーマンの実態とはかなり異なると思われる。
実際のサラリーマンは、良く言えば自由で裁量もあり、悪く言えば責任が伴う
私はシステム開発系の職場(SI)で、システムエンジニアをやっているので、その立場でしかモノが言えないけれど、少なくとも、私の観測範囲では、良くも悪くも、自由と裁量は相応にあって、その代わり、当然ながら仕事に責任が伴う。
そもそも、上司は、いちいち細かい仕事を"命令してくれない"。
そう、してほしくても、してくれないのだ。細かく命令してくれた方が、何も考えずに済むので、ある意味で気が楽かもしれないのだが。
自分のやるべき仕事は、自分で考えて、自分なりの「ワークパッケージ」(作業単位)に、落とし込んで行かなければならない。
また、日々、メール文書や、顧客や協力会社メンバーとの打ち合わせに使用する資料などのドキュメントを作成する。運用へ作業をやってもらうための手順書を書いたりする。
そうした仕事には、小さいながらに、創造性が含まれている。
現代の、特にホワイトカラーの職場においては、完全なルーチンワークは皆無と言っても良いかもしれない。
(上長への承認を受けて進める『手続き』系の仕事は、確かにルーチン的ではあるが)
失ってみてわかる定期的な安定収入のありがたさ
サラリーマンの語源は、おそらく月々の給料(サラリー)であろう。
毎月、決まった日に、一定の金額の給料がもらえるという事。
これは、自由業、自営業、事業主の人から見れば、垂涎のありがたみである。ここでは詳しくは言わないが、ぜひとも調べて見ると良い。自由業の人の不安定収入での生活の大変さというものを。
昔、誰かが言っていたのだが、サラリーマンから自由業に転向する場合、大まかに言って、3倍の収入がないと同じような生活ができない、とも言う。
それくらい、安定収入というものはありがたい事なのである。
だからこそ、失われた20年の間に増加した、決して希望して就いたわけではない非正規雇用は、罪深いものであると思う。
とにかく、まずは社畜という言葉を使わないようにしたい。
そして、日々の小さな創造性を大切にするのである。