IT (情報技術) 学習記録-もしくは中高年(就職氷河期世代)の生き方-

IT系,または,電気通信系資格の学習記録を中心に。もしくは中高年(就職氷河期世代)の生き方,働き方,世の中。中高年の転職の現実。

今日は『ばっくれ退職したという新入社員』が話題だったが…。


今日は『ばっくれ退職したという新入社員』が話題だったが…。


合縁奇縁。この世の中にはどんな縁があるかわからない。


ばっくれは、正直、傍迷惑ではある。

アルバイトなら普通にある事だ、という意見もあるが、本来ならアルバイトであっても、決して良い事ではない。

他の人がやっているからと言って、じゃあ自分もやって良いのか、という問題である。

ましてや今回のニュースはアルバイトではない。

言葉が通じない程の異常環境に放り込まれたとか、そういう事態なら別であるが、今回の内容では、単に一方的に"自分には合わない"と悟っただけである。

せめて一言、退職する意向を伝えるなど、話をしないと、周りは何が起きたのかわからず、ひたすら困惑してしまうだろう。

成人した大人ならば、最低限、自分の言動に責任を持つのが良いと思う。

最低限、は・な・せ! (話せ)

とは、思う。


実は新人研修中は辞めたくて仕方がなかった

とは言う私であるが…。

自分も実のところ、新人研修中は辞めたくて仕方がなかった。(結局は、辞めずに20年以上になるのだが…)

辞めるなとは言わない。

しかし、実際には辞めなかった側の人間なので、辞める方向を強く勧めることもできない。

おそらく、辞めれば辞めたなりの、辞めなければ辞めないなりの、それぞれの異なった人生経験を積める事だろう。


私が新人研修中に辞めたかった理由は複数あるが、わかりやすい理由としては、学生時代に当時としては珍しくアセンブラC言語を専攻して来ており、それを訴求して面接もしたはずなのに、メインフレームCOBOL系の研修組に編入させられたからだった。

学校の先生達は皆が皆、『COBOLなんてスグに消え去る』と言っていたのに、である。


現実としては、COBOLプログラムは現在でも増加し続けているし、今でこそUNIX/Linux系のプラットフォームがメインだが、業務でなければ決して触ることもなかった汎用機系の世界での経験は、それなりに貴重なものだったと思えるが…。

この辺りは、まさに昨年に話題となった某巨大コンピュータメーカーに就職するも、すぐに辞めてしまった人と対比になる。


話が逸れた。

基本的に、労働者には『辞める自由』がある。

だから、辞めるなとは言えない。

しかし、会社側には『雇う義務』はない。

私は既に中年だから、古臭い事を言ってしまうのかもしれない。

新入社員が『辞めたい』と思う事自体は良くある事である。普通の事だと言える。

昨日まで学生だった人が、イキナリ社会人だと言われれば、拒絶反応の一つや二つは起こる。

だが、そこは最初の壁なのである。

乗り越えるべき壁だ。

乗り越えて、初めて、見えてくるものがある。

辞めるのならば…。

せめて最初の壁は超えて見てからにしたらどうだろうか…。

いま、まさに辞めたいと思っている新入社員には、こう言いたいな。

プロジェクトマネジメントにおいて本当に守らないといけないものはコストよりもタイム…時間だ!時間的余裕だ!


プロジェクトマネジメントにおいて本当に守らないといけないものはコストよりもタイム…時間だ!時間的余裕だ!


プロジェクトにおいて、何が人を追い詰めるのか。

それははっきりしている。

「お金(コスト)」と答えるPMが居たら注意が必要だ。

人をいつも、追い詰めるもの。

それは、「時間」だ。

時間が人を追い詰める。


ユーザーやプロジェクトオーナーは時間(スケジュール)を軽く見すぎる

ユーザーや、プロジェクトオーナーは、決まってお金(コスト)を抑えたいがために、時間を削ろうとする。

しかし、実情を無視した時間の削減は、結果として、更なるコストの増加を招く事がある。

理由は様々挙げられる。が、最も悪い展開は、現場の人間が、心労や過労などによって体調不良となり、稼働がガクリと下がる事態である。

繁忙期にキーとなる技術者が長く休んだりすると、それだけで、たやすく現場が崩壊する。

IT系の現場においては、本当に必要な知識やスキルを持った人材の有無が、成否を分ける。

従業員を何万人も抱える巨大企業であっても、その事業を支えているシステムの固有な知識は、下手をすると自社の誰も持っておらず、委託先のとある技術者ただひとりにしかない、なんて事は普通にある。

これが形の見えないソフトウェアの開発/保守の現場の、特に日本の現場の実情である。


ユーザーやプロジェクトオーナーは、確かにコストを重視するだろう。

それくらいしか口を出せない素人だから、という事情もある。

だが、コストカットをしたいがために、安易にスケジュールを短縮するのは愚策である。

現場の技術者にとっては、時間的余裕こそが、最も欲しいものなのである。

時間の余裕さえあれば、暗黙知形式知に変換する余裕もできる。

時間の余裕さえあれば、マニュアルや手順書を整備する余裕もできる。

時間の余裕さえあれば、若手に知識やスキルを継承する余裕もできる。

時間の余裕さえあれば、発注元メンバーに本来の知識やスキルを渡す余裕もできる。

時間の余裕さえあれば、前任の残した資料を読み込む余裕もできる。

結果として、プロジェクトの品質も上向く。

そして、時間の余裕さえあれば、いつも心身と頭の状態を良く保つことができるので、より前向きに、より提案型に、よりヤル気を持って、仕事ができる。


ソフトウェアプロジェクトの本質はブルックスによって「人月の神話」が書かれた40年前から何も変わっていない

ブルックスによる「人月の神話」を知らない関係者が多過ぎる。

単に技術者を増員しただけでは、プロジェクトの期間は短縮できない。

スケジュールを確保しろと言うと、必ず、そのためにはお金が必要だという反論が来る。

作業工数の工面などは、まさにプロジェクトマネージャーが色んな画策をして何とかするものである。

現場の技術者にとっては、プロジェクトの黒字よりも、とにかく時間が欲しいのである。


近年は、短納期化、超高速開発など、ユーザー企業やプロジェクトオーナーなどの素人が飛びつきそうなキーワードが流行っているが、太くて短いプロジェクトを安易に決行すると炎上の可能性が高まる。

少数精鋭による細くて長いプロジェクトの方が、ずっと成功する可能性が高まる。現場の人間にとっては当たり前の事実である。

フレデリック・ブルックスの「人月の神話」の内容を見てみると良い。

40年前の本とは思えない程に、現在のソフトウェアプロジェクトにも通ずるものがある。

今日は情報処理技術者試験当日…ここでIT資格試験に関する意外と知られていないデータを少し書いておく


今日は情報処理技術者試験当日…ここでIT資格試験に関する意外と知られていないデータを少し書いておく


 今日は平成29年度春の情報処理技術者試験(または情報処理試験)の試験日当日である。非常に良い天候に恵まれ、これで受験者数が少しでも伸びれば良いと思う。

 私は、3年間もの休職明けという事情もあり、まだまだ高度試験を受けられるような準備もできなかったので、今回は申し込まなかったが、次回以降は積極的に受けたいという思いでいる。

 情報処理技術者試験などの試験に否定的な人も、肯定的な人も、いろいろいると思う。それでも、Twitterにおいて、"情報処理" “試験"などというキーワードで検索すると、ものすごい数のツイートが出力される。

 いろいろと制度が変更されて、一部は改悪だとも揶揄されてはいるが、流石に50年近い歴史を持つ国家試験である。知名度は抜群に高いという事なのだろう。


 「情報処理技術者試験などのIT資格の意義とIT基礎知識の重要性」に関しては、以前にも下記のエントリーで軽く記載した。

kf7757.hatenablog.com


 今回は、意外と知られていない、IT資格試験に関するデータについて、少しだけ書いてみる。


民間系IT資格試験では、LPICORACLE MASTER が2強

 ベンダー系など、民間系のIT資格試験では、どうやら、LPI(Linux Professional Institute) による、LPICLinux技術者認定資格)と、ORACLEによる、ORACLE MASTEROracle Database)が、受験者数(または認定者数)の数字から見て、他の資格試験を圧倒しているようである。

  • LPIC 受験者数 2016年の段階で、約29万人 → 現時点の想定:約30万人

  • ORACLE MASTER 認定者数 2009年の段階で、約20万人 → 現時点の想定:約30万人

 2つとも約30万人と、人数的には良い勝負である。

オラクルマスターの方は認定者数なので、受験者数は更に多いと推測できる)

 私はてっきり、オラクルマスターの方が断然多いと思っていた。こちらの方が古くからやっているためだ。感覚的にも知名度オラクルマスターの方が上である気がしていた。しかし、実際にはLPICが肉薄している状況にある。やはり、OS系は強いという事か。(DB系も同様に強いんだが)

 いろいろ調べてみたが、他のIT系の資格試験の多くは、受験者数、認定者数では、上記の10分の1にも満たないものがほとんどである。

(例えば、私が他に持っているUMLモデリング技術認定試験UMTP、等は、認定者数3万人弱のようである)

 認定者数が多いという事は、それの数倍以上の『述べ受験者数』『述べ応募者数』があったという事である

(2017年4月16日訂正)記事の中で、LPICの『認定者数』と『受験者数』とを間違えておりました。申し訳ありません。正しい数値は各試験の主催団体のWebページなどをご確認ください。

(参考)

 「ORACLE MASTER 再受験のススメ - 今では管理職になっているご同輩諸君へ (Qiitaより再掲/一部修正)」

kf7757.hatenablog.com


情報処理技術者試験はやはり歴史が違うので受験者数もケタが違う模様

 国家試験である情報処理技術者試験の方は、IPAが統計情報を公開している。これを詳細に分析すれば、様々な事がわかるだろう。

 情報処理技術者試験は、年に1~2回しか受験する機会がない事、スキルベースではなく知識ベースの内容である事、難易度が高い事、民間系試験よりは受験料が安い事、など様々な理由から…

 応募者数 > 受験者数

 …という傾向が強い。

 それでも、経済産業省の資料によれば…

  • 年間の応募者数が45万人規模の大規模な国家試験

  • 平成26年度までの46年間に応募者数は1802万人を数え、合格者総数も226万人に達し

 …とある。

 ここで言う人数は延べ人数だろう。それでも、民間系試験とはケタが違う。

 現在の平成29年に当てはめて推測してみると、ざっくり、延べ応募者数では2千万人近くに上っていて、合格者も250万人近くにまで上っているという事になる。


 IT企業の人事部門の方にも、上記の試験を受けて欲しいという淡い思いはある。実際に勉強して受験してみないと、その試験の本当の難易度や本当の価値はわからない。決してITSSレベルとの相関表だけで判断できるものではない。

 まぁ、逆も然りなので、これは言っても仕方がないか。

 こういうように数字で見ると、やはり、皆、頑張っているんだなぁ、と思う。自分も頑張らねば。

サラリーマンは「社畜」なんて言ってはいけないし、自分はそんな事を思ってもいない。


サラリーマンは「社畜」なんて言ってはいけないし、自分はそんな事を思ってもいない。


 新年度が始まってまる2週間が経過した。

 新社会人、新入社員の皆さんの中には、早くも「辞めたい」とか、「自分はサラリーマンには向いていない」とか、そんな事を思っている人が出てくるかもしれない。

 不思議な事ではない。

 誰しもが一度は思う事である。一度どころではない。けっこう思う事である。流石に毎日思うようなら、何かが問題なのかもしれないが…。まぁ、とにかく普通の事である。


サラリーマンは本当に「社畜」なのか

 この「社畜」という言葉は、いったい誰が、いつ言い出した言葉なのだろうか。特に調べる気もないし、調べても居ないが、少なくとも良い響きではない。

 私は、実のところ、普通のサラリーマン(この場合は、広い意味でのサラリーマン。会社員や公務員も同じものとする)ではない職業の人か、もしくは学生さんあたりが、積極的に言い出した言葉なのではないか、と邪推してしまう。

 何故なら、どうにも真の意味と実態がズレているように思えるからだ。

 社畜というと、以下のような印象を受ける。

  1. 毎日ひたすらやりがいのない嫌な仕事を上司から命令されてやらされている

  2. 会社などの組織の歯車として創造性のない仕事をやらされている

  3. 成長性が低いルーチンワークが主体である

 もしも、社畜という言葉から受ける印象が、上記のようなものであるとするならば、現代のサラリーマンの実態とはかなり異なると思われる。


実際のサラリーマンは、良く言えば自由で裁量もあり、悪く言えば責任が伴う

 私はシステム開発系の職場(SI)で、システムエンジニアをやっているので、その立場でしかモノが言えないけれど、少なくとも、私の観測範囲では、良くも悪くも、自由と裁量は相応にあって、その代わり、当然ながら仕事に責任が伴う

 そもそも、上司は、いちいち細かい仕事を"命令してくれない"

 そう、してほしくても、してくれないのだ。細かく命令してくれた方が、何も考えずに済むので、ある意味で気が楽かもしれないのだが。

 自分のやるべき仕事は、自分で考えて、自分なりの「ワークパッケージ」(作業単位)に、落とし込んで行かなければならない。

 また、日々、メール文書や、顧客や協力会社メンバーとの打ち合わせに使用する資料などのドキュメントを作成する。運用へ作業をやってもらうための手順書を書いたりする。

 そうした仕事には、小さいながらに、創造性が含まれている

 現代の、特にホワイトカラーの職場においては、完全なルーチンワークは皆無と言っても良いかもしれない。

 (上長への承認を受けて進める『手続き』系の仕事は、確かにルーチン的ではあるが)


失ってみてわかる定期的な安定収入のありがたさ

 サラリーマンの語源は、おそらく月々の給料(サラリー)であろう。

 毎月、決まった日に、一定の金額の給料がもらえるという事。

 これは、自由業、自営業、事業主の人から見れば、垂涎のありがたみである。ここでは詳しくは言わないが、ぜひとも調べて見ると良い。自由業の人の不安定収入での生活の大変さというものを。

 昔、誰かが言っていたのだが、サラリーマンから自由業に転向する場合、大まかに言って、3倍の収入がないと同じような生活ができない、とも言う。

 それくらい、安定収入というものはありがたい事なのである。


 だからこそ、失われた20年の間に増加した、決して希望して就いたわけではない非正規雇用は、罪深いものであると思う。


 とにかく、まずは社畜という言葉を使わないようにしたい。

 そして、日々の小さな創造性を大切にするのである。

IT業界の構造とユーザー企業の官僚化と…つまり愚痴だごめんよ


IT業界の構造とユーザー企業の官僚化と…つまり愚痴だごめんよ


 新年度になった。今年は年度始めからまるまる一週間勤務で、いろいろ疲れたが、まぁ、そんなことはどうでも良い。

 年度が変わって、新しいシステム大規模改訂案件の打ち合わせに呼ばれたりした。

 ユーザー企業の官僚化と、それによる『丸投げ体質』の進行は、この『非アウトソーシング化』『インソーシング化』が叫ばれているご時世だと言うのに、止まらない。

 前々からTwitterではつぶやいている事だが、官公庁や大企業の本社側と、中小企業や大企業の現場側との『分断』が激しい

 本社側には、高学歴だが現場仕事はできないという頭でっかちの管理者ばかりがひしめいていて、しかも彼らは2~3年ごとに『定期異動』でジョブチェンジをくりかえすので、ますます実務はできず、ひたすら現場側に仕事を『丸投げ』する姿勢となる。

 一方の現場側は、大企業なら支社や子会社、もしくは下請け先企業の業務領域となる。現場採用の人という存在も居て、彼らは本社側とは違う人事ルールによって動いている。現場側でも同じ会社ならば、まだ現場の声を強く言える方だ。近年は、子会社化、もっと言うと委託化(下請け化)が進行しているので、本社側から見ると、一種の『奴隷』とも言える。

 こんな階層構造ができあがっている。日本社会のそこかしこで。


 システム担当は、たいてい本社側の人間である。

 システム化の世界で言うと、現場側が我々IT屋となる。

 本社側の人間なので、定期異動でコロコロと居なくなる。

 それでも、一昔前までなら、限られた『任期』の中で、わからないなりに、必死で勉強したりしてくれて、仕様調整などでもよく動いてくれる人が多かった。でも、近年は違う。近年は、システム担当もかなり若い人になって、たいてい30前後だ。(本社側で、現場側との調整を行う事もあるので、流石に20代前半の新人は居ない。だいたい、主任クラスが多い)

 近年の若い本社側の主任クラスの担当者は、まぁ、本当にひどい。おそらく、本当に何をして良いのかわからない、という事もあるように思える。これも極度にアウトソーシング化した弊害ではないだろうか。

 よく大企業の総合職の事を、"専門性を伸ばしつつ様々な事に取り組む"と言われる事があるが、実際は真逆である。大企業の総合職は究極のゼネラリストになるように人事的な計画が取られている。ゼネラリストといえば聴こえが良いが、要するに実作業は全部『現場側に丸投げ』なのである。

 今回は、どこぞのR&D部門の研究成果を、システム化して欲しいという、気をつけないと炎上する気配がプンプンする案件だった。資料自体も自分たちでは作成していない。こりゃまずい。


システム開発の炎上原因のトップは

 これは経験則である。でも、だいたいは合っていると思うのが、システム開発や大規模保守プロジェクトにおける炎上の原因だ。

 炎上原因の割合(経験則)

  1. 要件定義をすべきユーザー側が動かない・決めない 50%

  2. システム開発側元請けのプロジェクトマネジメントがダメ 40%

  3. その他、メンバーエンジニアのスキル不足など 10%

 きわめて、本当にきわめてざっくり言うと、こんな感じだ。

 プロジェクトの発足段階の『要件定義』の段階で、かなりが決まる。


 明日からは、休職前を含めると数年ぶりに、こんな感じの上流工程に、徐々に足を突っ込む仕事になってくるようだ。うまくストレスコントロールをしないとなぁ。


 最後に、先週の仕事を終えての心の叫びのツイートを貼っておこう。

 

とある無自覚な学歴主義者たちへのひとつの反論


とある無自覚な学歴主義者たちへのひとつの反論



1.主張

 学歴とは多くの人が『平等』で『公平』だと言っているものの、実は、その生まれた世代、生まれた家庭環境、経済的な環境によって、差が出てくるものである

 そもそも、現代において、『高学歴』とか『低学歴』という言葉を使う場合、多くの者は、その言葉の前に『大学の(偏差値が)』という言葉が付く事を前提にしているフシが見られる。言い方を変えるなら、学歴とは"大学(入学)歴"の事であり、世の中の社会人の半数以上を占めている"大学未満の学歴"を最終学歴とする者を、始めから視野に入れていないように思われる。俗に言う『眼中にない』という状態である。

 私の主張は、それって、おかしい事ではないか、大学未満の学歴を最終学歴とする人(例えば、中卒、高卒、高専卒、短大卒、専門学校卒などの人)に対して、非常に失礼な事ではないか、という感覚的・感情的な点が一つ。

 もう一つは、よく言われている、下記の理論は、理論的にも正しくはないと思う点である。

よく言われている理論
『高学歴である』という事実は、その人の努力してきた結果を示すものであり、「努力できる人」である事を示すものである。そして、『高学歴ではない(=低学歴)』という事実は、前述した努力してきた結果という意味では、それを示していない。従って、『学歴』で人の基礎能力や基本的価値(努力できる人かどうか)を測ることには一定の合理性がある。
上記が正しくないという理由(主張)
生まれた世代、生まれた家庭環境、経済的な環境によって、『学歴』には差が生じる。つまり決して『平等』で『公平』なものではない。世の中を渡る、もしくは育つ過程においては、『運』の要素が大きいのが現実である。「努力すれば必ず結果が出る」という事が夢物語である事は誰もが知る現実である。世の中には「努力できる環境に居ない」という人や、「努力しても結果が出なかった」という人が多くいる。つまり、「努力できる人かどうか」を測るのに、"『学歴』だけ"では不十分である。

2.世代の差(私の場合を例に)

 例えば、私自身は、いわゆる『団塊ジュニア世代』(社会に出る時期は『バブル崩壊後の就職氷河期の前期』という世代)に当たる(就職氷河期世代:日本版ロスト・ジェネレーション)。私の同世代の人数はとても多く、受験戦争という言葉が使われていた時代に、高校受験や大学受験を経験した。私が高校受験をした当時、公立高校は学区制を取っていて、普通の公立中学校では割と上位の成績を修めていた事もあり、その学区では上位から3番目くらいに偏差値の高い高校に進学した。具体的な偏差値を言うならば、当時で62~64くらいだったと記憶している。

 そういう意味ではまあまあの進学校と言える高校だった。そんな高校でかなりの上位をキープするような人でも、大学受験は熾烈な過当競争となっており、いわゆる『日東駒専』クラスに行くのがやっとだった。いわゆる『MARCH』クラスには本当に成績上位者しか行けず、『早慶』クラスは学年で数名程度、『国公立』クラスも学年で数名、『東大』クラスに至っては、学年で1名出るか出ないか、という状況だった。

 現代でも『東大』クラスの困難さは変わらないかもしれないが、進学校で『日東駒専』にも行けない人が続出した時代とは、かなり違っている。私の世代では、『Fランク』などという言葉はなかった。どの大学も競争率が高く、現代では『Fランク』などと言われている大学に、進学校から進んだ。『日東駒専』クラスを第一志望にして、浪人する人も多く居た。そんな世代だった。

 無論、高校から就職する人も多く居た。私のような普通科高校出身ではむしろ役に立たず、高校卒業で社会に出るには、工業高校や商業高校の方が有利だった。確かに、当時から既に大学進学偏重の傾向はあって、工業高校や商業高校が普通科高校よりも低く見られる節も、決してなくはなかった。しかし、多くの企業において高校卒業者が有望な働き手であったのは確かである。公務員は無論のこと、大企業でも高卒枠での就職口が多くあった。


 そうした、20年も前に高卒で社会に出た人々が、現代において、転職・再就職の現場で、苦い思いをしていると聞き及んでいる。特に女性で出産・育児のために退職せざるを得なかった人が、単に学歴が現代の若手よりも低い事を理由に不利な条件に甘んじているという現実には、理不尽であると感じる。


3.誤っている思考の順序

 冒頭にも書いたが、現代において、なお重視されている『学歴』は、決して本人の努力"だけ"で得られるものではない。

厚生労働白書

 大学への進学率は、上記の厚生労働省の白書やデータを参照するとわかる。

 高度経済成長期を通じて上昇してきた大学進学率は、1962年に10%に到達し、1972年に20%に到達する。その後、約20年の間、20%台半ばの水準で推移し、30%を超えたのは、バブル崩壊後の1994年である。

 いわゆる『就職氷河期』に、大学進学率は急速に上昇し、2002年に40%を、2009年に50%を超えた。

 バブルが弾ける前の、『一億総中流』と言われた時代にあっても、高校よりも更に上の学校に進学するには、かなりの学費が必要で、当然ながら親の負担は相当に大きなものだった。私の世代であっても、上記のデータを見るとわかるように、大学進学率は3割未満だった。高校よりも上の学校への進学。それには家庭の、つまり親の経済的な豊かさが必要だった事は確かだろう。

 それでも親の世代が熱心に子ども(昔の私達)を熾烈な受験競争に駆り立てた。それは現代にも通ずるものだが、見方を変えれば、そうした親の存在がある者だけが、受験戦争に参加できたのである。

 当時は受験戦争。戦争というからには敗者も存在した。現代のように競争率が1を下回る大学が存在した訳ではない。

 大学進学率が3割未満の時代。教育論的な面でも、経済的な面でも、『高校まで進学していれば充分だ』という考えの大人も多かった。

 そんな社会情勢を一変させたのは、おそらく『バブル崩壊』と、その後の『就職氷河期』であると思う。


 それまで、中学卒業者、高校卒業者が担っていた各職場の『枠』に、行き場を失った大学卒業者が流れ込んだのである。各企業は採用枠を激減させた。そこに『募集枠』に関わらず、大学卒業者が流れ込んだ。企業側は、本来なら違う基準で採用しているはずの高卒者と大卒者を、同列に比較するという愚行をする。『高学歴すぎる』という理由で採用されない事態も当然ながら発生したが、社会全体で見れば、『大卒者が高卒者を就職枠から締め出す状況』となってしまった。

 これが、『大学に進学しなければ就職も不安だ』という意識に繋がった事は想像に難くない。

 上記の現象だけを見るならば、『大学に進学した結果として、それが努力した成果となった』という思考の順序ではなく、『大学に進学しなければ満足に就職にも有りつけないかもしれないという不安感から、大学に進学している』という思考の順序なのである。

 結局のところ、『無理にでも序列を付けるための理由』を、社会が要求した

 それだけの事である。

 しかし、前述の通り、大学進学には家庭や親の心理的・経済的な支援が必要である事から、そうした“無理な社会の要求”に応えられない場合も多かったはずである。

 バブル崩壊後、社会情勢は急激に変化し、『一億総中流』と言われた時代ではなくなってしまった。

 いわゆる『非正規雇用』が急激に拡大したのもこの時代からである。

 経済的な豊かさはなくなり、経済的な理由によって、大学に進学したくても断念せざるを得ないという人は増加した。社会全体では大学進学率が上昇している中で、格差が広がって行ったのである。

 このことからも、『学歴』は、決して本人の努力"だけ"で得られるものではない、という事が言えるだろう。


4.確かに学歴の影響がありそうにも見えるが…

 近年のテレビ番組におけるクイズ番組において、中退組も含めた、偏った『出身大学の表記』、『出身大学名を売り物にする風潮』は、上述の事を考えると、いささか異常なものであると思える。

 特に20代の若手ならまだしも、卒業から40年も経った60代のタレントであっても、『出身大学』を表記している。しかも、一部の国公立大学や有名私立大学の場合だけ、である。

 クイズ番組の正答率と学歴に、果たして関連性があるかどうかは、検証できるデータがないので判断はできない。

 これは私感であるが、学歴よりも世代間格差の方が、クイズの正答率には影響を与えているように思える。また、読書量の差もあるように思える。

  • 仮説1.若年層(20歳前後まで)では学歴論者が言うように、基礎学力の差(学歴)が少し影響している

  • 仮説2.中年層(30歳~50歳代)では、学力(学歴)よりも日頃の情報の入出力(読書量など)の差が影響している

  • 仮説3.熟年層(60歳以上)では、その年齢までの知的生活の質の差が影響している

 上記はあくまでも私感から勝手に立てた仮説である。

(注 : 2017.04.09 年齢の数字を少し変更。中年層範囲を拡大)

 この仮説の通りだとするなら、大学の偏差値の差が影響しているのは20歳前後までがせいぜいではないかと思われる。(これも、あくまでも一般論的な概説に過ぎない)

 私の世代では、『社会に出て実務経験を積めば、実務経験や職歴の方が重視され、学歴なんて関係ない』と先輩たちからは言われてきた。上記の仮説が正しければ、その通りという事になる。なお、上記の熟年層の『知的生活の質の差』は、ある意味では、最もシビアに学歴的であるとも思っている。大学名の差ではなく、本当に若い頃からの『知的生活を送る環境に居た時間の差』であると思うからである。


5.人事が学歴をフィルターに使うのは正しいとは言えない

 企業が欲しい人材とは、本当はどんな人材なのだろうか。

 『優秀な人材』と答えるようなら、練られた考えではないと思う。仕事や職場には、合う人と合わない人がいる。「優秀か否か」などといった漠然とした基準だけで、それが判断できるだろうか。

 私の今の職場では、何よりも損失が大きかった出来事は、人材が職場を去ってしまう事であった。それは年齢や経験年数に関係なく、である。

 例え入社1年目の新人といえども、入社1年で職場を去ってしまわれると、そのショック、喪失感はとても大きい。

 職場も人間の集団であり、それが歴史を持っている訳だから、それぞれにカラーが有る。そのカラーに合うか合わないかは、けっこう重要な事だと思う。

 よく世間では、そうした事も踏まえて、『自ら環境に合うように努力できる人』、『変化に強い人』を求めると言い、それが『学歴』で示される、という理論がある。

 しかし、職場に合うか合わないかは、『学歴』などといった回りくどい判断をせずに、直接面談をしてみるか、もしくは何か小論文(例えば自分が働きたい職場とはどんな職場かなど)でも書いてもらう方が、遥かに直接的に判断できる。

 採用しようとしている者(入社したいと希望している者)が、学生ではなく、既に何らかの職歴を持っているなら、なおさら、今までどんな職場でやってきたか、今後はどんな働き方をしたいかなどを、直接聴いた方が確実ではないだろうか。


 なお、組織には多様性も必要である。

 その意味でも、学歴のみをフィルターに使ってしまう、あるいは、書類選考だけでフィルターにかけてしまうと、『きれいな職歴』の人しか残らない。

 企業の内部で出世して行くのは、それこそ『きれいな経歴』の人というのが通例ではあるが、それも本当なら良い事とは限らない。

 例えば、近年、社会問題となっているメンタルヘルスも、そういった病気を一度でも経験した者の方が、できる役割もあるのではないだろうか。たいてい『パワーハラスメント』の問題を起こす管理職は、得てして『自分は自分の努力で出世してきた』という自負が強すぎる社員ではないだろうか。

 


6.学歴の話題は本当に繊細…なので

 学歴という言葉には魔力でもあるのか、この言葉を見ただけで平静ではなくなる人が必ずいる。

 この個人のブログを読んでも過剰に反応する人はいるかもしれない。

 私は言いたいことを自身のブログに記載しているだけである。その為、過剰な反論などには特に反応するつもりはない。もちろん、感情的には賛同を得られる方がうれしいに決っているが、それは人に強要するつもりもないし、この程度の文章で論破する気もない。


7.おわりに

 正直、尻つぼみになっていると思う。

 長い文章は書くと体力を消耗するのだ。


 最後に、私自身の背景を少しだけ書いて終わる。

 私は、プロフィールにある通り、一介の情報処理技術者システムエンジニア)である。メンタルヘルス的な問題で長い休職も経験した。そのおかげで降格の憂き目も見ている。だが、しぶとく何とかやっている。レールを外れてこそ、見えるものもあると思う。

 私は、大学未満の学歴を最終学歴とする者の一人である。



(後日追記:関連記事リンク)

kf7757.hatenablog.com

新入社員に言いたい事をたった一つに絞ると…。


新入社員に言いたい事をたった一つに絞ると…。


 たった一つに絞ろう。

 新人のうちから…

 仕事を流すようにこなす悪いクセをつけるな

 …という事だ。

流すようにとは、例えば『右から左へ』、『上から下へ』など、である。

 IT業界で言うと、比較的大手のSI企業などの、いわゆる一次請けで仕事をしている組織に、こういう悪いクセを持ってしまった若手が少なからずいる。

 知らない事を、知らないと言わず、知ったかぶり、もしくは知ったように錯覚して、貴重な『何でも質問できる新人の時期』を過ごしてしまった人に、非常に多い。

 そういう人は、まず人を見る目が育たない。先輩を上辺の役職だけで判断したりしている。

 5年後、10年後に、とても埋められない差として表れる。

 そうならないために、何をすべきか。

 一つだけの答えは存在しないけれど、基本的には『基礎知識の学習』を辞めない事だ。

 汎用的な知識だけではなく、その業種固有の知識も同じ事である。

 たいてい、浅い知識は、用語がわからなくて露呈する。

技術のスペシャリストとしてのキャリアパスは確かに必要…なので早く技術者の誰かが偉くなってくれ的な矛盾


技術のスペシャリストとしてのキャリアパスは確かに必要…なので早く技術者の誰かが偉くなってくれ的な矛盾

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 私も20年以上、とある業種のシステム開発業界を見てきた。この人が言われている通りである部分もある。この人のように色んな技術を転々とする事が、今の日本社会において、正しいことなのかまでは判断できない。もしかすると、転々とする事が不利に働く場面も、おそらくは多いと思われる。

 自分に当てはめてみると、確かに技術の習得に関しては同感である。個人的には管理職なんて向いてないと思うし、技術者にはマネジメント以外のキャリアパスがあって然るべきだと思う

 だが、同時に、こうも思う。こういう技術者としてのキャリアを積んだ人が組織の上に立って、技術者たちが正当に評価される土壌を築いて欲しい、とも…。

 つまり、特に日本の会社や組織の上層部に居座っている連中は、技術者のことを正しく評価できない者たちばかりだという事である。

 特に大きな会社や組織の中で、上層部に昇るためには、外部から来た人間(外様大名)ははっきり言って不利だ。譜代大名が有利なのだ。

 タイトルの通り、誰か早く技術者の誰かが偉くなってくれと思ってしまう。それは現実とは程遠い世界だからかもしれない。

ファイルの圧縮技術をざっくり言うと…。


ファイルの圧縮技術をざっくり言うと…。


  最近の tar コマンドは、アーカイブと同時にcompress(圧縮)できる。そして更には、これは案外知らない人も多いが、展開時に圧縮オプションを指定し忘れても、正しく展開してくれる。

    これは、圧縮ファイルのヘッダー部分に、自分がどんな形式で圧縮されたのかが書かれているから、簡単に判別できる。

    もしも、このヘッダー情報が書かれていなかったら、どうだろうか。そもそも、何故、このようなヘッダー情報が必要なのだろうか。

 


  情報の圧縮というものを、きわめて『ざっくり』言うと、『規則性のある情報を見つけ出して、それを不規則になるまで圧縮する』という事である。

    例えば、空白文字が20回繰り返された『規則性』を発見したなら、それを『20回の空白』を意味する別の情報に書き換える。


  圧縮された後のファイルは、その意味ではとても似通っている。あまりにも『規則性が無い』という意味では…。

    だから、もしもヘッダー情報が無かったなら、ビット列から判定する必要が出てくるが、それはとても難しいロジックになってくる。

    何故ならば、圧縮された情報は、上述のように、皆不規則に似通っているからだ。

    また、同じ理由から、『圧縮の重ねがけ』は、効果が薄くなってくる。一度『不規則に圧縮』してしまった後では、圧縮する余地が無くなってしまうからである。

 


    以上、あくまでも『ざっくり』な『独自解説』でした。

 

ユーザー企業にITやWebのスペシャリストが育たないのでひどい品質の要求定義が氾濫する


ユーザー企業にITやWebのスペシャリストが育たないのでひどい品質の要求定義が氾濫する


 今日、たまたま見かけた記事。わかるなぁ、という話。

 タイトルの通り、多くの日本企業および官公庁においては、いわゆる『総合職』的な業務のやり方をする者が権力を得る構造になっている。

 『総合職』と言えば聴こえは良いが、要するにゼネラリストである

 こうした者たちは2~3年ごとに異動を繰り返し、様々な場所や部門を渡り歩く。そうした中で『人脈』を築き上げて行き、徐々に出世する。

 彼らゼネラリストは、ITシステムの構築やWebの細かい事などは、専ら『外注』する事になる。

 ここで問題が生じる。

 『要件定義』の問題である。

 『要件定義』の責任はユーザー側にある。これが大原則だ。

 画面の仕様なども当然それに含まれる。

 しかし、彼らはゼネラリストであり、しかも2~3年ごとに居なくなる。

 人が替われば言うことも変わる。大規模に新規開発した時には、それなりの開発基準やルールを定めたりするものだが、たいてい、そういったものは引き継がれない。


 日本のゼネラリスト偏重志向が、色んな問題を産んでいると思う。

 スペシャリストをもっと重用して育成する土壌を作らないと、日本のガラパゴス化はいつまでも進行するだろう。

受託システム屋が思うデザインについて

(反論)RE:新人は飲み会は断らない方が良いし、上司に媚びた方がいい。


(反論)RE:新人は飲み会は断らない方が良いし、上司に媚びた方がいい。


 少しだけ反論したい。

http://wasara.blog101.fc2.com/blog-entry-3788.html

 『あくまでも新卒入社1年目の新人』に限って言うならば、一部は同意見。新人のうちは、飲み会には出席した方が良い事がある。

 確かに、飲み会では、昼間の業務時間中には得られない、別の『もう一つの組織』が見えたりする。

 但し、別に『出世するためのノウハウ』が聴ける訳ではない。もしも、そういうつもりで飲み会に参加するとなると、ものすごく対費用・対時間的に、効率が悪すぎる

 私の意見を言うならば、飲み会が純粋に楽しめるなら参加した方が良いし、正直、苦手ならば、距離をとっても構わない。但し、上述したように、新卒入社1年目に限るなら、なるべく参加した方が良い事があると思う。飲み会に行くか行かないか、ましてや上司に媚びを売るか売らないかで、出世にはほとんど影響しない


飲み会で得られる情報とは

 上司に限らず、中堅以上のベテラン社員は、新人に対して『昔話』をしたがる。その中には、貴重な情報も確かにある(こともある)。

 仕事のやり方とか、様々な話はあると思う。しかし、それは必ずしも現代に合致したものではない場合も多い。業務のやり方など、変化の早い業界なら、数年でガラリと変わってしまう。

 ぶっちゃけて言うと。

 最も貴重な情報は、過去から連綿と続いている『人間関係』の事情であると思う。

 わかりやすい例を言うなら、『先輩・後輩の関係』だ。

 仕事ができる、即ち役職に就いている、とは必ずしも言えない。組織内における人事というものは、そこまで単純ではない。(では何が人事を決めているのか、という点については、ここでは敢えて言わない。語りだすとそれだけで数万文字になってしまいそうだから)

 自分の配属されたセクションの"部長"が、実はとある"主任"の『直系の後輩』である、などという裏事情があったりする。ここで言う直系とは、組織内の部門の系列のようなものだ。例えば「あの人は入社以来ずっと営業畑で…」などというものだ。

 日本企業ではまだまだ『入社年次』というものが重要視される。

 その組織で2年目になると、必ずなれるものがある。それが『先輩』という存在である

 特に若い頃に世話になった先輩というものには、いろいろと学ばせてもらう事が多いし、実際、その先輩が一定以上のスキルを持っているなら、役職に関係なく、裏では世話になる事が多く、いつまでも(良い意味で)頭が上がらないものである。

 そうした裏事情も知らずに、単に役職だけを見て先輩社員を軽んじたりすると、あまり良い事はないと思う。役職だけを見て媚びるのは、外部の請負企業の人など、そういった関係性の人々だ。外部の人は、裏事情など知らないし、意味もないと思っている。何故なら彼らこそ、人の価値を"権限"のみで判定しているのだから。

 ちなみに人事の事情を、ほんの少しだけ言う。どんなに強い決裁権を持っている役職者であっても、組織内の人事への関与権は、また別なのだ。これは、しっかりとした組織を保っている企業や団体ほど、そういう傾向がある。

 だから、仮に社長や役員にいくら良い印象を得られようとも(媚を売っても)、出世には全くと言って良いくらい、関係ない。


飲み会に行くのは適度にして、浮いた時間とお金を自分への投資に使う

 日本人は欧米人と違って、お酒が飲めない体質、いわゆる下戸も多い。

 それに、日本企業の飲み会では、若い女性はセクハラに近い事をされる場合もある。それこそ『媚を売る事を強要される』というカルチャーがある。チヤホヤされるという事は、裏を返せば下に見られているという事だ。それに気づかず、浮かれた状況で二十代を潰してしまう有望な女性社員がなんと多いことか。

 一方で、若い男性社員は、『とにかく弾けろ』とばかりにバカをやらされる場合もある。バカ乗りが好きで、それが楽しめる人は良い。しかし、そうでは無いという人も多いはずだ。バカ乗りとまでは行かなくとも、何故か『過剰な自己開示を強要される』というカルチャーがある。苦手な人にとっては勉強になる事よりも、ストレスの方が大きいだろう。

 飲み会の付き合いの良し悪し程度では、出世には影響しない。大体、出世する事がその人にとって良い事なのかも、人による。

 飲み会は二次会、三次会も含めれば、一夜で一万円以上かかる。時間と体力も消耗する。すべての誘いを受けていたら、週に2回以上、月に10回近くにもなる。


 そんな事で消耗するくらいなら、自分への投資に使った方が良い

 私は、若い頃、よく金曜日に翌朝まで上司や先輩に飲みを付き合って、土曜日の朝に帰宅したりしていた。そういう時は、まず貴重な週末は潰れてしまう。そんな事で消耗するくらいなら、勉強でもしておくのだったと思う。

 会社外の付き合いも、今では重要なご時世だ。

 せっかくの週末は、そういう事に使った方が良い。


 ちょっと勢いで反論してみた。

 多分、世代が違うとは思う。

 私は、就職氷河期の最初期組の世代、とだけ言っておく。

職場復帰して約半年…身を助けるのは『日本語』『OS』『DB』


職場復帰して約半年…身を助けるのは『日本語』『OS』『DB』


 職場復帰して約半年。正直、身を助けているのは、以下の三点かと実感している。

  1. 職場文化に合致した日本語力

  2. OS(UNIX/Linux)の基本知識(シェルスクリプトが書けるとか)

  3. データベースの基本知識(ORACLE)

 よく世間では英語がわからないと最新技術が速く取り込めないとか色々と言われている。それは間違っていない。だが実際の職場で日常的に使用されるのは、日本で働くなら日本語だ。

 そして、基本的な『報告・連絡・相談』から『メールによる連絡』、何かトラブルが発生したときに上司や顧客に対して作成する『報告書』の類。これらを“即興”で作成する時に必要なものが一つ目である。

 本番環境や開発環境で何かトラブルが発生した場合、その状況に応じてシェルスクリプトSQL文(たいてい両者は組み合わせる事が多いが)を、“即興”で作成する事が多い。これらが二つ目、三つ目である。

 現に、直近の3月末の2週間は、期末処理の障害対応でいろいろとバタバタしていた。そんな中でも、三年間も職場を…と言うよりも仕事自体をしていなかった身でも、少しは役に立てたと思う。

 職場復帰に併せて、リハビリも兼ねて、「LPIC」の学習をしたり、同じく「ORACLE MASTER」の学習をしたりしたのは、業務にも直接、役に立ったと思う。

 ネットを見ると色んな意見があって、例えば、「LPICなんて所詮は暗記モノだし、あんな試験を合格したなんて言っている人は信用できない」などという人もいる。

 それでも、私は、役に立った。


 もちろん、上記に挙げた点は表面的なものであって、実際には、その職場の文化、その職場で扱っている業務システムの知識、などといった根底部分がもっとも重要ではある。こうしたものは、一朝一夕に身に付くものではないので、経験を積み上げるしか無い。

 でも、そういった根底部分が仮に弱くても、上記の3点があれば、割とそこそこ行けるとも思うのだ。


 リワーク施設の担当カウンセラーさんに、『休職期間と同じくらいの長さのリハビリ期間が必要になる』という事を言われた。

 それはその通りかと思う。

 やはり、トラブル対応などが入ると疲れ方が違う。一時間でも居残りが発生すると疲れ方が違う。

 無理は禁物であると感じる。

モデリング表意言語 UML (Unified Modeling Language) とは…本当に言語だろうか


モデリング表意言語 UML (Unified Modeling Language) とは…本当に言語だろうか


 UML (Unified Modeling Language) は、ドキュメントの記法の一種であり、良くも悪くも、それ以上でもそれ以下でもない。少なくとも現在の日本における大多数のシステム開発現場においては。

 確かにUMLの中の一部の図は、オブジェクト指向の言語や設計を強く意識したものとなっている。しかし、それはあくまでも一部である。(例えば「クラス図」は、その名称からもわかるようにオブジェクト指向を意識した図である。一方で、例えば「ユースケース図」は、あくまでも業務フロー分析のための図であり、オブジェクト指向とは直接的な関係はない)

 決してUMLによるドキュメンテーションが即、オブジェクト指向につながる訳ではない。


 UMLは確かに2000年代に流行したと思う。

 実際に、UML駆動型のCASEツールなども生まれた(UMLをINPUTとして、ソースコードのひな形をOUTPUTするツールなど)。しかし、UMLがそれ自体、直接コンパイルされて実行されるような性質のものではなく、あくまでもドキュメントの一種である事から、他の古来から存在するドキュメントと同じように、メンテナンスの問題(ソースコードとの乖離)を抱える事となった。

 日本の、特に官公庁や大企業における基幹業務系システム開発の現場では、UMLの誕生よりずっと昔から、設計書/仕様書の書き方について、独自にではあるが、研究されて来た。

 それは確かにオブジェクト指向には必ずしも向いていない、いわゆるプロセス中心指向のものであったとしても、“「業務ロジック」や「システムアーキテクチャー」を書き表し、ユーザーと共有する”、という目的のために研究され、工夫を重ねてきた背景がある。

 そこに、適用プロセスを敢えて定義していないUMLを導入しようとしても、効果は限定的となる。


 UMLが最も活躍したのは、おそらく「オフショア開発」といった異文化の人々が情報をやりとりする現場である。特に新興国のIT開発の現場では、古来からのドキュメントの蓄積などはなく、UMLがそのまま標準として利用できただろう。

 しかし、そもそもオフショア開発自体が日本の業務システム開発で成功しているかという点は、何とも言い難い。何しろ日本のシステム開発はカスタマイズのカタマリになっているので、オフショアでいくらコストを削減しても、中長期的に見ればシステムの改修(保守:エンハンス)で、かえってコストが増大する結果になっている面もある。

 オフショア開発とは異なるが、主として中小企業向けの「作りっぱなしの業務システム」においても、ユーザー企業側に成果物標準などが存在しない状況の中では、UMLはよりどころになる。

 現実的な位置づけとしては、ドキュメントの基礎素養の一つとして理解しておく必要がある事は確かとして、実際には他のドキュメント体系とも複合させつつ、うまく利用して行くものと言えるだろう。

 ここで言う他のドキュメント体系とは、例えるなら、上流工程向けの「Mind-SA」などである。


 2017年現在において、UMLに関する認定試験は、下記の2種類がある。

UMTP/Japan 特定非営利活動法人UMLモデリング推進協議会

UMLモデリング技能認定試験 UMTP

UML教育研究所 UTI

OMG認定UML技術者資格試験プログラム OCUP / OCUP2


 私はUMTPの方を8年前にLevel2(L2)まで取得したが、認定試験としては少々苦戦しているようにも思える。UML単独ですべてをやろうとする部分に無理が生じているのかもしれない…。

情報処理技術者試験の副読本に最適『暗号技術入門 第3版 秘密の国のアリス』(著:結城浩)


情報処理技術者試験の副読本に最適『暗号技術入門 第3版 秘密の国のアリス』(著:結城浩)


 情報セキュリティ関連を学習している人にとっては、名著としてかなり有名な書籍である。

 かくいう私も、昨年、遅ればせながら拝読した。

 上記のリンク先でも私が述べているように、純粋に、日本語として、文章として、書物として、読む価値が高い。

 巷に多く氾濫している、急造された自己啓発本などに比べ、はるかに内容が『構造化』されて、適度に『凝集化』されていると思う。

 なので、価格以上の価値を感じる事ができる。

 内容は「暗号技術」に関する入門的なものだが、暗号技術自体が数学的な話を避けて通れない。そのため、最低限ではあるが数学的な記述もある。それが、とても美しい。そう、美しい文章なのである。

 文学的な美しさとは少し違う。構造的/工学的な美しさを感じさせる


 情報処理技術者試験の内容において、情報セキュリティ分野が強化されて数年が経った。いまや基本情報技術者試験(FE)や、応用情報技術者試験(AP)においても、暗号技術の理解は必須と言って良い。今年からは情報セキュリティスペシャリスト試験(SC)が、情報処理安全確保支援士試験(SC)に変わっている。

 その意味でも、本書は一読の価値がある。

 おそらく、いきなり情報処理の教科書で、「共通鍵暗号」、「公開鍵暗号」等の説明文を読んでも、なかなか理解できないという人は多いのではないだろうか。

 教科書を読む前にこの本を読んでおくと、かなり理解に差が出ると思う。


 この本に関しては、内容について、敢えてほとんど触れずに紹介した。

 数少ない、必読の本である。

基本情報技術者試験(FE)の午後の選択など何を選んでも良い…あえて言うならとっつきにくい分野の方がロジックは簡単だ


基本情報技術者試験(FE)の午後の選択など何を選んでも良い…あえて言うならとっつきにくい分野の方がロジックは簡単だ


 かつては『第二種情報処理技術者試験』と言われていたプログラマー向けの国家試験は、昔はけっこう合格するのが難しく、10年がかりで合格するという人も居たし、何度か受験して不合格になって、そのまま受験(合格)を諦めるという人も多かった

 (第二種の頃の合格率はだいたい15パーセントに届くかどうかだった。現在の基本情報の合格率は25パーセント前後だから、10パーセントは合格率が上がっている事になる)

 今のIT企業の管理職世代には、実は若い頃に第二種試験を取得しようとして挫折した苦い思い出を胸に秘めている人も多いかもしれない。名称が基本情報に変更されて、合格率が上がったとしても、その「基本情報」という名称故に、「いまさら恥ずかしくて受験できない」などという変なプライドがますます強くなってしまい、勉強や受験をするモチベーションが下がってしまうのだ。

 そういう訳で、基本情報は若いうちに受験する方が良い。(無論、実はベテランでも本来なら受験すべきであるが)


 午後のアルゴリズムの選択問題は、言語を何にするかについて、いろいろな情報がネット上には錯綜しているように思う。

 まぁ、表計算だけは異質だという意見はもっともであるが…。

 私に言わせれば、事前の勉強がし易いもの、もしくは業務で経験があるもの、というものを素直に選べば良い。

 『文系の未経験者はこれを選べ』とか、『COBOLなんか役に立たないから選ぶな』とか、『アセンブラが簡単だとの説は頭がおかしな意見だ』とか、いろんな“知ったか”さんたちが言っている。

 そんなものを盲信すべきではない。

 ただ、昔から言われている事には、えてしてとっつきにくい分野(例えば仮想アセンブリ言語CASLなど)の方が、問題自体は簡単だという説がある。これは、ある程度は説得力がある説ではある。

 もっと言うと、特にアセンブラでは、問題を難しくする事自体が難しい。ごくごく基本的な命令しか持たないアセンブラの世界では、純粋なアルゴリズムの基礎といった単純な問題しか作れないからである。

 もしも私がこれから勉強を始める初学者にすすめるなら、アセンブラかもしれない。試験に合格し易いとか、そういうことではなく、コンピュータの動作原理を学ぶには、仮想であってもアセンブラは良い教材となるためである。


 試験日まであと20日あまり。今回受験する人は頑張って欲しい。

 (ちなみに、私は旧第二種を受けたときはCASLを選んだ。その後に、インテル8086系アセンブラを学習するための良い導入にもなったし、良い経験になったと今でも思っている)

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